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幕間:西涼の誓い

幕間:西涼の誓い

西涼、金城。秋風が砂塵を巻き上げ、空はどこまでも高く青い。

故郷の風は肌に馴染む。だが、この五年で、馬超の見る景色は、そして彼自身も全く違うものへと変わっていた。


広大な練兵場に、彼の檄が飛ぶ。

「隊列を乱すな! 騎兵の強さは数ではない! 一つの槍と化した時の、その一点突破の力にある!」

かつて并州の土を踏んだ若獅子は、今や誰もが認める西涼の次代の棟梁として、その威容を増していた。彼が導入したのは、并州で見た高順の「陥陣営」の規律と、西涼騎兵の機動力を合わせた新たな集団戦術。それは、個の武勇を絶対としてきた西涼の伝統とは、あまりにも異質であった。


「若君は、并州にかぶれて牙が抜かれたか」

訓練を眺める古参の将たちの中から、そんな侮蔑の囁きが聞こえてくる。その中心にいるのは、父の代からの腹心であり、西涼随一の猛将と謳われる龐徳ほうとくであった。彼の眉間には、馬超の改革への隠しきれない不満と戸惑いが深い皺となって刻まれている。

(個の力を殺して、雁のように列をなして飛ぶことの、何が強さだというのだ。我ら西涼武士の誇りは、己が槍一本で敵陣を切り裂く、その猛々しさにあるはず…!)


城壁の物見櫓から、父・馬騰がその光景を静かに見下ろしていた。彼の顔には憂いではなく、むしろ満足げな笑みが浮かんでいる。

(行け、超よ。反発を恐れるな。それこそが、お前が真に西涼を統べる者となるための、最後の試練だ)

五年前、并州へ旅立った息子は抜き身の宝剣そのものであった。鋭く、美しく、しかしあまりにも脆い。だが、呂布という鬼神にその鼻をへし折られ、民と共に土を耕して帰ってきた息子は、鞘を知る名刀へと変貌を遂げていた。その鞘とは、民を想う心であり、国を背負う覚悟。あの飛将・呂布に息子を預けた自らの賭けは、大勝ちであったと、馬騰は確信していた。


練兵場の空気が、ついに張り詰めた。

「若君!」龐徳が、馬超の前に進み出た。「兵は口先だけでは動きませぬ! まずは、若君ご自身の武をお示しいただき、我らを納得させていただきたい!」

それは、公然の挑戦であった。


馬超は、その挑戦を静かに受け止めた。

「龐徳、お前の言いたいことは分かる。だが、我らがこれから向き合うべきは中原の曹操や袁紹だ。個の力だけでは、国は守れん。呂布将軍から、俺はそれを学んだ」

「呂布将軍の武は、確かに天賦のもの。ですが、それはあの御仁だからこそ! 我らには、我らの戦い方があるはず!」

「ならば、分からせてやるしかないな」

馬超は、愛用の白銀の槍を手に取った。

「龐徳、お前が俺に勝てば、この話は白紙に戻す。だが、俺が勝てば、全軍、俺のやり方に従ってもらう。それで、良いな」


西涼の太陽が、二人の猛将を照らし出す。龐徳の大斧が、大地を砕くかのような轟音と共に振り下ろされる。かつての馬超であれば、その剛撃をさらに強い力で打ち返しただろう。

だが、今の彼は違った。

彼はその一撃を正面から受け止めず、呂布を彷彿とさせる流麗な体捌きでいなすと、返す槍の石突で龐徳の体勢をわずかに崩した。

(なっ…!?)

龐徳は戦慄した。馬超の槍は、もはや荒れ狂う嵐ではない。嵐の中心にある、全てを見通す静かな目そのものだ。剛と柔、動と静。その全てを兼ね備えた槍の前に、龐徳の武はまるで赤子のようにあしらわれていく。


数十合の打ち合いの末、馬超の槍の穂先が、龐徳の喉元でぴたりと静止した。

勝敗は、決した。


馬超は、敗れて膝をつく龐徳に、黙って手を差し伸べた。

「お前の武、見事であった。その力を、これからは西涼全土のために貸してくれ」

その器の大きさに、龐徳は完全に心服した。彼は差し出されたその手を両手で掴むと、その場で深く頭を垂れ、次代の主君に絶対の忠誠を誓った。


その夜、父との酒宴を終えた馬超は、一人、自室で月を見上げていた。

父は言っていた。「婚礼は、天下の情勢が落ち着き、お前が真に西涼の民を背負う覚悟を決めた時こそが、最高の刻限となる。今は力を蓄えよ」と。父の言葉の意味が、今なら分かる。五年という歳月は、決して無駄ではなかった。


俺は、懐から一つの小さな、古びた布包みをそっと取り出した。五年間、肌身離さず持ち続けた、俺の宝物。

包みを開くと、ほのかな甘い香りが乾いた西涼の夜気に溶けていく。華殿から贈られた、甘草だ。

その香りを嗅ぐだけで、胸の奥が温かいような、切ないような、不思議な熱で満たされる。

脳裏に、あの可憐な、しかし芯の強い少女の姿が浮かぶ。「お待ちしております」と言った、あの潤んだ瞳。


(待っていてくれ、華殿)

俺は、遠い并州の空に向かって静かに語りかけた。

(中原の嵐がもうすぐ収まる。袁紹か、曹操か。どちらかが倒れ、天下の形が見えた時…その時こそ、俺がこの西涼を背負って立つにふさわしい男となり、必ず、あんたを迎えに行く)

(俺は、あんたを守る。この西涼の民を守る。そして、義父上が築き上げたあの楽土を脅かす者がいれば、この槍で、西からその全てを薙ぎ払ってやる)


若獅子の瞳には、もはや若さ故の焦りはない。

愛する人を守るという絶対的な誓いを胸に宿した、一人の棟梁としての、深く、そして揺ぎない決意の光が宿っていた。

俺の槍は、もはや己のためではない。民と国、そして愛する人を守るための、真の守護者の槍へと、その姿を変えようとしていた。

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