第四十九話:名も知らぬ好敵手
第四十九話:名も知らぬ好敵手
村人たちからの涙ながらの感謝の言葉を背に受けながら、飛燕と趙雲は村はずれの井戸のそばで、言葉少なに向かい合っていた。
戦いの興奮はすでに冷めている。だが、その代わりに互いの存在を強く意識する、どこかぎこちない、しかし心地よい緊張感が二人を包んでいた。
先に沈黙を破ったのは趙雲だった。
彼は槍についた血糊を布で丁寧に拭うと、改めて飛燕に向き直り、深く一礼した。
「某は、趙雲、字は子龍。しがない旅の者だ。―――先程の槍、まこと見事であった。某がこれまで見てきた、いかなる猛将の槍よりも荒々しく、力強く、そして何よりも生命力に満ち溢れていた。魂が震えるとは、ああいうことを言うのであろうな」
その、あまりにも真摯で手放しの賞賛。
そして、先程まで魂を震わせ合った相手が、改めて見れば息を呑むほどの美丈夫であること。飛燕は心臓が大きく跳ねるのを感じながらも、それを悟られまいと必死に平静を装い、慌てて偽名を名乗った。
「…ひ、飛燕よ。ただの、旅の武芸者。…あ、あんたの槍こそ凄かったわ。まるで水が流れるように無駄がなくて、それでいて岩をも砕くようだった。あんな槍、見たことない…」
しどろもどろになりながらも、その言葉に嘘は一欠片もなかった。
趙雲は、そんな彼女の様子に穏やかな笑みを浮かべた。
「ほう。あれほどの槍を使いながら、名もなき武芸者とは信じがたい。失礼ながら、どちらかの高名な師にでも師事されておられるのか?」
「師なんていないわよ! これは、我流!」
「なんと…」
趙雲の目に、隠しきれない驚嘆の色が浮かぶ。「我流で、あれほどの高みに…。まこと、天賦の才とはこのことか。天は、貴殿に比類なき武を与えられたのだな」
その、どこまでも真剣な眼差しと、自分を「天賦の才」とまで言ってくれる称賛の言葉に、飛燕の頬がわずかに熱くなる。返り血の赤とは違う、淡い桜色の熱が、雪のように白い肌に広がっていくのを、自分でも止められない。
自分を女としてではなく、一人の武人として対等に見てくれている。その事実が、彼女の心をくすぐった。
「…あ、あんたこそ! その見事な槍術、只者じゃないわね! どこの軍の将軍様かしら? それとも、どこかの道場の師範とか?」
今度は、彼女が探りを入れる番だった。
「いや…」
趙雲は、少しだけ寂しそうに首を横に振った。
「某には、仕えるべき主君も帰るべき場所もない。ただ、己の信じる『義』を体現するに値する御方を求め、こうして放浪しているだけの、しがない浪人に過ぎぬ」
その言葉に、飛燕はなぜか胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
(自分と、同じだ…)
この男もまた、自らの魂を燃やすべき場所を探して、独り、この広い世を彷徨っているのだ。
会話の端々から、互いが持つ武への真摯な姿勢や、根底にある「義」の心を感じ取り、二人の心は急速に惹かれ合っていく。
だが、惹かれれば惹かれるほど、二人の間には一つの見えざる壁が生まれていた。
飛燕は、自分が「呂布の娘」であるという、あまりにも大きな真実を言い出せなかった。この男が、自分の武を「あの飛将・呂布」の威光の一部と見てしまうかもしれない。何よりも、この初めて得た「対等な武人」という心地よい関係を、失うのが怖かったのだ。
趙雲もまた、目の前の少女が放つ特別な輝きの前では、公孫瓚に仕え、理想に破れた自らの過去を詳しく語る気にはなれなかった。
この、名も知らぬ武芸者同士という、心地よい対等な関係を、どちらも壊したくなかったのだ。
言葉での探り合いに、飛燕が痺れを切らした。
こんな、回りくどいやり取りは性に合わない。
この男のことを本当に知るには。
そして、この男に自分のことを本当に知ってもらうには。
言葉ではなく、もう一度、槍で語り合うしかない。
彼女の心は、すでに決まっていた。