幕間ノ二:古城の猛虎
幕間ノ二:古城の猛虎
秋風が吹きすさぶ頃。
中原の南、汝南の地。かつては官軍の砦であったが、今は打ち捨てられ、蔦の絡まる古城に、一人の猛虎が牙を潜めていた。
城壁の上で、張飛は一人、巨大な酒甕を呷っていた。その顔には無精髭が伸び、着ている鎧は無数の傷で原型を留めていない。数ヶ月前に兄たちと離散して以来、彼の世界から色彩は消え、ただ酒の苦さと血の生臭さだけが日常となっていた。
眼下では、数百の部下たちが彼の咆哮のような檄に応え、泥と汗にまみれて訓練に励んでいる。彼らは徐州で散り散りになった兵の生き残りや、この地で張飛の義侠心に惹かれて集まった元・黄巾党のならず者たち。装備も練度もバラバラだが、その瞳にはこの荒ぶる主将への絶対的な信頼と、明日への希望が宿っていた。
張飛がこの古城の主となったのは、三月前のことだ。
兄たちを探してこの地を彷徨っていた彼は、この城が曹操軍から派遣された悪徳役人に占拠され、近隣の村々が重税と略奪に苦しんでいるのを目の当たりにした。役人の兵は千。対する張飛は、手勢わずか五十。誰もが無謀だと止めた。
だが、張飛は月夜に一人で城壁を乗り越えた。
そして、闇に紛れて兵糧庫に火を放つと、その混乱の中、城の中庭で仁王立ちになり、あの雷鳴のような声で、たった一人で名乗りを上げたのだ。
「燕人・張飛、ここにあり! 民を苦しめる悪党ども! この蛇矛の錆にしてくれるわ!」
その鬼神の如き姿と、一人で千の軍勢に戦いを挑むという常軌を逸した胆力に、城兵は完全に度肝を抜かれた。城内は大混乱に陥り、張飛はその中心で黒い竜巻のように暴れ回り、役人の首をいともたやすく刎ねてみせた。主を失った兵は蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、彼はたった一夜にしてこの城を解放したのだ。
以来、彼はこの城を根城とし、曹操軍へのゲリラ戦を繰り返していた。それが兄たちを探し出すための唯一の道であり、曹操への一矢報いるための意地でもあった。「兄者…雲長の兄貴…どこにいるんだよ…」という、誰にも聞こえない魂の呟きは、夜ごと酒と共に飲み干された。
その日、彼が捕らえてきた行商人から、一つの噂を耳にした。
「聞いたかい、将軍。下邳にいた関羽将軍だが、曹操公に降ったそうだ。なんでも、金銀財宝や『漢寿亭侯』という破格の爵位を与えられて、そりゃあ丁重にもてなされているらしいぜ。曹操公が自ら誂えさせたという錦の戦袍は、それは見事なものだとか」
その言葉を聞いた瞬間、張飛の顔から血の気が引いた。酒甕を握る手に力が入り、ミシリと音が鳴る。
劉備兄者の所在も知れぬというのに、弟が敵の甘い汁を吸っている。張飛の単純な思考の中で、その事実は「裏切り」と同義であった。
(あの野郎…! 俺たちが生きるか死ぬかも分からねえってのによ! 曹操の甘言に魂を売り渡しやがって!)
「ふざけるなッ!」
張飛は卓を拳で叩き割った。その咆哮は、古城全体を震わせるほどであった。
「うおおおおおおおおっ! 許さねえ…! 絶対に許さねえぞ、関羽!」
彼は、壁に立てかけてあった愛用の蛇矛を掴むと、城壁から飛び降りんばかりの勢いで外へ飛び出す。
「てめえら、聞け! あの裏切り者の代わりに、この俺が、劉備兄者の仁義を守ってやる! 曹操の首を獲って、兄者がまだここにいると、天に知らせてやるんだ!」
三兄弟の強い絆が生んだ、哀しい誤解。
古城の猛虎は、そのやるせない怒りの矛先をただひたすらに曹操軍へと向け、さらに激しい戦いの中へとその身を投じていくのであった。彼の戦いは、もはや兄たちを探すためだけではない。裏切られた(と誤解した)絆の代わりに、自らが「仁義」そのものになろうとする、悲壮な戦いへとその意味を変えていた。