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幕間:折れた虎

幕間:折れた虎

并州北部の荒れ果てた山砦。冷たい秋風が、破れた旗指物を虚しく揺らしていた。

その中心で、一人の男がどかりと胡坐をかき、濁った酒を呷っている。男の名は、呼延虎こえんこ。その身にまとう鎧は所々錆びつき、顔には幾筋もの古い刀傷が刻まれているが、その体躯から滲み出る威圧感は、並の山賊のそれとは明らかに異質であった。


「頭目! 斥候が戻りやした! 例の村、見事な豊作だそうで!」

部下の報告に、周囲のならず者たちが、飢えた獣のように目をぎらつかせる。

「よし…」呼延虎は、重い腰を上げた。「これが最後の賭けだ。この戦で腹を満たし、冬を越す。そして春には、再びあの男の喉笛を狙う…!」


その瞳の奥には、憎悪と、そして決して消えることのない恐怖の記憶が、暗い炎となって揺らめいていた。


かつて、彼には誇りがあった。

黒山を根城とした張燕に仕え、「黒山の虎」とまで呼ばれた日々。仲間と共に酒を酌み交わし、武人としての誉れのために槍を振るっていた。

あの日、あの男と出会うまでは。


常山の平原。進軍してきた并州軍を、数で圧倒できると誰もが信じていた。だが、先陣を切って現れたのは、たった一騎。燃えるような深紅の戦袍を纏い、神馬・赤兎に跨った、赤い鬼神。

飛将・呂布。


あれは、戦ではなかった。天災だった。

人の理を超えた武の奔流が、黒山が誇る精鋭たちを、まるで雑草のように薙ぎ払っていく。あまりの恐怖に足が竦み、主君・張燕も敗走し、軍は一瞬で崩壊した。

呼延虎は、仲間の亡骸を踏み越え、命からがら逃げ延びた。あの時、確かに見たのだ。味方の血を浴びながら、天に向かって咆哮する鬼神の姿を。その光景は、彼の悪夢となった。


主を失い、仲間も散り散りになり、彼は流浪の身となった。武人としての誇りは、日々の飢えの前にはあまりにも無力だった。生きるため、食うために、彼は牙を剥き、人を襲った。気づけば、同じように食い詰めた者たちを束ねる、山賊の頭目となっていた。

かつての仲間は、もういない。残ったのは、呂布への底なしの憎悪と、生き残るための泥臭い知恵だけだった。


村への襲撃は、容易いものになるはずだった。

だが、そこに、あの女が現れた。


長い黒髪をなびかせ、黒い駿馬を駆る、花の蕾のように若い少女。血と炎が渦巻く地獄絵図の中に、あまりにも場違いな、神聖なまでの美しさ。

最初は、天からの贈り物かと思った。だが、彼女が槍を構えた瞬間、呼延虎は全身の血が凍るのを感じた。

(この『気』は…!)

あの時の鬼神と、全く同じ質の、荒々しく制御不能な覇気。理屈ではない。魂が直接、恐怖に震えるのだ。血は争えない。あれは、呂布の娘だ。


「小娘がァッ!」

恐怖を振り払うように吼え、彼は大刀を振るった。

少女の槍は、確かに天賦の才に溢れていた。純粋な武威だけで言えば、かつての主君・張燕をも凌ぐやもしれぬ。

だが、まだ若い。あまりにも真っ直ぐすぎる。

呼延虎は、数多の修羅場を潜り抜けてきた経験の全てをぶつけた。味方を盾にし、不意を打ち、呼吸の乱れを誘う。生き残るためだけに磨き上げた、老獪な牙。

やがて、少女の動きに一瞬の隙が生まれた。

(もらった!)

勝利を確信し、渾身の一撃を振り下ろした、まさにその時――。


白い風が、二人の間に割り込んだ。

気づけば、自分の大刀は宙を舞い、喉元には、月光のように冷たい槍の穂先が突きつけられていた。


白銀の鎧を纏った、あの若武者の槍。

それは、少女の嵐のような武とは対極にあった。一切の無駄がなく、静かで、そして、あまりにも完璧。自分の老獪な技も、必死の抵抗も、まるで大河の前の小石のように、いともたやすく受け流され、砕かれていく。

その絶対的な「格」の違いを前に、呼延虎は、もはや為す術もなかった。


(そうか…)

彼の脳裏に、諦めにも似た乾いた笑いが響いた。

(俺は、一体、何と戦おうとしていたのだ…)

呂布という、人の理を超えた鬼神。

その血を受け継ぐ、嵐のような娘。

そして、その娘の隣に、自分を赤子扱いするほどの、もう一人の規格外がいる。


并州は、自分が思っていたような、ただの田舎ではない。

化け物の巣窟だったのだ。

呂布への復讐という、唯一の生きる支えすら、今、目の前の圧倒的な光の前では、あまりにも矮小で、虚しいものに思えた。


彼は、絶対的な絶望の中で、ただ、己の死を待つ。

だが、その時、信じがたい言葉が、背後から聞こえてきた。


「邪魔しないでッ! そいつは、私の獲物よ!」


あの嵐のような少女が、再び、自分と若武者の間に割って入ろうとしていた。

その光景は、呼延虎にとって、もはや理解の範疇を超えていた。

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