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幕間:江東の若き主

幕間:江東の若き主

中原が官渡の決戦を前に息を殺していた夏。南の地、江東では一つの巨大な太陽が、あまりにも突然に墜ちようとしていた。


呉郡の太守府。壮麗な屋敷の奥深く、一室だけが重い静寂に包まれている。部屋には薬草を煎じる匂いと、死の気配が重く満ちていた。

牀榻しょうとうに横たわるのは、江東に覇を唱え、「小覇王」と謳われた兄・孫策。数日前、許貢きょこうの食客を名乗る刺客の毒矢に倒れ、その英雄的な生命は、今や風前の灯火であった。その顔は毒によって土気色となり、かつての覇王の面影はない。


「兄上…! しっかりなされよ、兄上!」


枕元には、弟の孫権が兄の手を固く握りしめて座っていた。その肩は小刻みに震え、偉大すぎる兄を失う恐怖と、これから己が背負うであろう運命の重さに、ただ押し黙っている。部屋の隅には、周瑜、張昭、程普といった宿老たちが沈痛な面持ちで控えていた。誰もが、江東の太陽が沈むという絶望的な現実を前に、言葉を失っていた。


その時、孫策がふと目を開き、最後の力を振り絞って言葉を紡ぎ始めた。

「…権よ、泣くな」

その声はか細いが、兄としての威厳に満ちている。

「…天下の英雄と中原に覇を競うこと…。こと武勇においては、お前は俺に及ばない。だが…」彼は一息つき、弟の瞳を真っ直ぐに見つめた。「賢才を用い、この江東の地を守り抜くこと。こと治国においては、俺はお前に及ばない。…父上が遺し、俺が築いたこの国を…頼んだぞ…」


次に、孫策は周瑜を手招きした。

「公瑾…」周瑜が膝を進めると、孫策は彼の耳元で囁く。「仲謀は、まだ若い。内は子布(張昭)に、そして外のことは、全てお前に任せる。もし、仲謀が主君の器でないと思うならば…お前が、この国を継いでくれ」


そして、彼は荒い息をつきながら、もう一つ、ずっと心の内にあった武人としての心残りを、無二の友に投げかけた。

「公瑾…父上が、生前、面白そうに語っておられたのを覚えているか…? 北にいる、あの鬼神のことだ。飛将・呂布…」その名を発する時、彼の瞳にかすかな畏れと、武人としての純粋な興奮がよぎる。「父上は言われた。『あれは天災だ。人の物差しで測るな』と。…お前は、どう思う。あれほどの武を持つ男が、この世に本当にいるのだろうか…? 一度で良い、まみえてみたかったものだ…」


周瑜は、友の最後の問いに、そして言葉にならない武人としての無念を悟り、静かに、しかし力強く答えた。

「伯符。噂は、おそらく真実でしょう。ですが、ご安心ください。どれほどの武を持つ英雄であろうと、一人で天下を動かすことはできませぬ。我らには、我らの戦い方があります」


その言葉に、孫策は満足げに、そして安堵したようにかすかに微笑むと、静かに息を引き取った。


「兄上!」


兄の死という現実を前に、孫権はその亡骸にすがって子供のように嗚咽する。その姿は、一国の主というにはあまりにも頼りなく、脆い。

その時、周瑜が進み出た。彼もまた親友の死に顔を歪ませながらも、毅然として孫権の前に膝をつく。

「仲謀殿。今は悲しむ時ではございません。伯符兄上が、貴殿に江東の全てを託されたのです。この公瑾、兄上との誓いに懸けて、生涯を貴殿にお捧げいたします。どうか、お立ちください、我が主君」


周瑜の、揺ぎない忠誠の言葉。それは、その場にいた全ての宿老たちの心を打った。張昭が、程普が、周瑜の隣に並ぶようにして、次々と若き主君の前に膝をつき、深く頭を垂れる。「我ら一同、若君を江東の新たな主と仰ぎ、この身命を賭してお支えいたします!」


臣下たちの誓いを受け、孫権は涙を拭う。彼はゆっくりと立ち上がると、兄の亡骸に深々と一礼した。そして、臣下たちに向き直った時、その瞳にはもはや少年の弱さはなかった。父から受け継いだという紫の髯、そしてみどりの瞳に、国を背負う君主としての、静かだが強い光が宿っていた。


葬儀が終わった後、孫権の執務室。周瑜と二人きりになった時、周瑜は静かに、しかし真剣な眼差しで、新たな主君に進言した。

「仲謀殿。先程、伯符兄上は北の呂布のことを気にかけておられました。父君・孫堅殿が抱いておられた、あの男への畏敬にも似た想いは、兄上の心にも深く刻まれていたのです」

周瑜は、孫策との最後の会話を孫権に伝える。

「呂布の武は、確かに人の域を超えているやもしれません。ですが、我らが今、憂うべきは遠い北の英雄譚ではありませぬ。まずは、この江東を鉄壁の国となすこと。それこそが、兄上への最大の弔いとなりましょう」


孫権は、兄と友が交わした最後の会話を聞き、改めて呂布という存在の巨大さを認識する。そして、周瑜の冷静な言葉に深く頷いた。

「…分かった、公瑾。兄上の想い、そしてお前の言葉、しかと受け止めた。今はただ、国を固める。我らの足元を見つめるのだ」


北の呂布が父の死を乗り越えたように、江東の若き主もまた、兄の死という最大の試練を乗り越え、自らの道を歩み始めた。

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