第四十七話:嵐の予感
第四十七話:嵐の予感
并州北部の辺境。秋風は肌を刺すように冷たく、木々の葉は最後の輝きを放ってはらはらと舞い落ち、やがて来る冬の気配を告げていた。
晋陽を出て、すでに十日が過ぎていた。
飛燕は、当てもなく馬で駆けていた。強者を求めて始まった旅。だが、彼女の目に映るのは、どこまでも続く雄大で、しかし、あまりにも静かすぎる秋の荒野ばかりだった。その静寂は彼女の心の内の嵐とは対照的で、かえって孤独を際立たせるだけだった。
出会うのは、臆病な獣の群れか、こちらの姿を見るなり慌てて逃げ去る異民族の斥候のみ。
一度だけ、小さな山賊のねぐらを見つけ、息巻いて乗り込んだは良いものの、相手はろくな武器も持たない、ただの飢えた農民の集まりだった。彼らは飛燕の槍を見るなり泣きながら命乞いを始め、戦いにすらならない。その瞳に宿っていたのは悪ではなく、ただ絶望だけ。彼女は槍を振るう気にもなれず、黙ってその場を立ち去るしかなかった。
「…つまらない」
小高い丘の上で、愛馬の黒い駿馬を休ませながら、飛燕はぽつりと呟いた。
募る退屈と、自分が求めているものが何一つ見つからない焦燥感。
晋陽の城は、確かに「籠」だったかもしれない。だが、その外の世界もまた、自分の滾る魂を満たしてくれるほどの「嵐」には程遠い場所だった。
(私は、一体、何をしているのだろう…)
自らの衝動的な旅立ちが、途端にひどく子供じみた我儘のように思えてくる。
姉様は、徐庶殿と共に国の未来をその知性で描き、華は、あの馬超とかいう男との縁で西涼との絆をその優しさで紡いでいる。二人とも、それぞれの場所で父の、そして并州の力となっている。それに比べて、自分は?
父上の、あの困ったような、寂しそうな顔が脳裏をよぎり、胸がちくりと痛んだ。
その時だった。
彼女の鋭い視力が、遠くの谷間から一本の不自然な黒煙が立ち上っているのを捉えた。
それは炊事の煙のように穏やかなものではない。空を汚すように黒く太く、風に煽られて不吉に渦を巻いている。
(狼煙…? いや、違う。あれは、民家が焼ける煙…!)
その瞬間、彼女の瞳から退屈の色が消えた。
代わりに宿ったのは、飢えた獣がようやく獲物を見つけたかのような、獰猛な光。
「山賊…! それも、ただの雑魚じゃないわね!」
正義感からではない。民を救うという高尚な使命感からでもない。
ただ、自らの鬱屈した、有り余るほどの力を存分に解放できる場所が、ようやく目の前に現れた。
その、純粋な喜びに、彼女の全身が打ち震えた。
「ようやく見つけた…私の戦場!」
飛燕は不敵な笑みを浮かべると、愛用の槍を強く握りしめた。
彼女は黒い駿馬の腹を強く蹴る。馬は主の昂りを感じ取ったかのように高く嘶くと、黒煙が上がる谷間へと、まるで黒い稲妻のように駆け下りていった。
村に到着すると、そこには地獄絵図が広がっていた。
数十人の屈強な山賊たちが民家を焼き、女子供を追い回し、略奪の限りを尽くしている。その装備はこれまでの雑魚とは明らかに違う。おそらくは、どこかの敗軍の兵士が食い詰めて賊に成り下がった手合いだろう。
(ちょうどいい…!)
「―――そこまでよ、下衆ども!」
飛燕の、鈴を転がすような、しかし鋼のように鋭い声が、喧騒に響き渡った。
山賊たちが、何事かと一斉に振り返る。
彼らが見たのは、信じがたい光景だった。
そこに立っていたのは、一人の、まだ花の蕾のように若い少女であった。
旅の汚れをまとった商人風の質素な服を着てはいるが、その美しさは到底隠しきれるものではない。血と煤煙が舞うこの地獄絵図の中にあって、彼女の存在は、まるで泥の中に咲いた一輪の白蓮のように、あまりにも場違いで、あまりにも神聖に見えた。
山賊の一人が、思わずごくりと喉を鳴らした。
「女…? しかも、極上の別嬪じゃねえか」
山賊の頭目らしき男が、粘つくような舌なめずりをしながら下卑た笑みを浮かべる。
「ひひひ、こいつは天からの贈り物だ。おい、てめえら、殺すなよ。傷一つ付けるんじゃねえぞ。生け捕りにして、俺様がじっくり可愛がってやる」
その、あまりにも汚らわしい言葉と、獣欲にまみれた視線。
飛燕の表情から、笑みが消えた。
代わりに浮かんだのは、絶対零度の、氷のような侮蔑。それは人間が虫けらを見る時の目ですらなかった。まるで、道端に転がる汚物を見るかのような、完全な無関心と生理的な嫌悪感。
そして、次の瞬間、彼女の全身から凄まじいまでの覇気が放たれた。それは父である呂布にも通じる、弱者の心を根こそぎ恐怖で支配する、絶対的な強者の「気」。
山賊たちは、目の前の少女がただ美しいだけの花ではなく、触れれば指先が切れ落ちてしまうほどの鋭利な刃であることを、本能で悟った。
「通りすがりの、ただの武芸者よ」
飛燕は、槍の穂先を頭目の喉元へとぴたりと向けた。
その声は、もはや鈴の音ではない。冬の夜空に響く、凍てついた弦の音色。
「…あんたたち、今、自分が何を言ったか、分かっているの?」
「その汚い口を、二度と利けなくしてあげる。感謝しなさい」
その言葉が、戦いの始まりを告げる号砲となった。
飛燕の身体が、黒い稲妻となって山賊たちの中心へと躍り込む。
悲鳴が上がる。だが、それは村人のものではない。
彼女の槍の穂先が煌めくたび、屈強な山賊の身体がまるで紙人形のように舞い、血飛沫が美しい少女の白い頬を点々と赤く染め上げた。
その光景は、あまりにも一方的で、あまりにも美しく、そして、あまりにも凄絶であった。
若き燕は、自らが求めていた嵐の中心で、歓喜の舞を舞っていた。
だが、彼女はまだ知らない。
この村を囲む、もう一つの丘の上。
一騎の白馬に乗った若武者が息を殺し、この常軌を逸した光景を、驚愕の目で見つめていたことを。
そして、彼の魂もまた、目の前の嵐のような少女に、抗いがたいほどに惹きつけられ始めていたということを。
二つの嵐の、運命的な交錯は、すでにもう、始まっていたのだ。