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幕間ノ二:玉璽の行方

幕間ノ二:玉璽の行方

許都きょと。夜の帳が都の喧騒を絹の布のように柔らかく包み込んでいた。

だが、国舅こっきゅう董承とうしょうの私室だけは、その静寂とは裏腹に、張り詰めた緊張感に支配されていた。灯火の光が彼の顔に深い陰影を刻み込んでいる。その瞳は、昼間の朝議で見せる穏やかな臣下のそれではない。漢王朝の未来という、あまりにも重い密命を背負った男の、底知れぬ憂いと焦燥に満ちていた。


(曹操め…あの男の息が、この都の隅々にまで満ちている…)


この許都は、金色の鳥籠だ。帝は、その中で最も美しい鳥として飼われ、曹操はその鳥のさえずりを利用して、天下の獣たちを手懐けようとしている。その事実に気づかぬ者はいない。だが、誰もがその現実を、声に出すことすらできずにいた。


その、息の詰まるような静寂を破り、扉が音もなく、三度だけ軽く叩かれた。

合図だ。

「…入れ」

董承の、静かだが重い声が部屋に響く。


入ってきたのは、旅の汚れもそのままに、一人の男であった。数ヶ月前、献帝の密命を受け、并州へと潜入した、董承が最も信頼する密偵。その男の顔には長旅の疲労だけでなく、信じがたいものを見てきたという畏敬の念と、それを上回るほどの興奮が、複雑に混じり合っていた。


「…面を上げよ」

董承は、その男のただならぬ気配を感じ取り、自らの緊張を悟られぬよう、努めて冷静に言った。

「苦労をかけたな。して、結果は、どうであったか。北の鬼神は、噂通りの、ただの獣であったか」


密偵は、ゆっくりと顔を上げた。

「…百聞は、一見に如かず。まずは、これをご覧ください」

彼は、懐から一枚の羊皮紙を取り出し、震える手で董承へと差し出した。


それは、并州の地図であった。だが、董承が知る古いそれとは全く違う。

地図の上には赤インクで無数の新しい線が引かれ、細かな文字がびっしりと書き込まれていた。

新設された砦の位置、整備された街道、そして、これまで荒れ地だったはずの場所に網の目のように張り巡らされた、新しい水路の計画。それはもはや単なる地図ではない。一つの国が力強く再生していく様を克明に記した、生命の設計図そのものであった。


「これは…」

董承は、息を呑んだ。


「噂に、偽りはございませんでした」

密偵は、静かに、しかしその声に確かな熱を込めて語り始めた。

「并州は、まさしく『楽土』。法は公正で、民は豊かになり、呂布将軍は民から神の如く慕われております」


「馬鹿な…。あの、ただの武辺者が…」

董承の口から、思わず信じられないといった声が漏れた。虎牢関で見た、あの荒れ狂う嵐のような男が、国を治めるだと?


「某も、そう思っておりました。ですが、違います」

密偵は、首を横に振った。

「并州の統治を実質的に動かしているのは、軍師の陳宮殿と、新たにお婿様となられた徐庶殿。この二人の知恵者はまさしく王佐の才。ですが、彼らが存分に腕を振るえるのは、ただ一つ、呂布将軍という絶対的な『武』の支えがあるからこそ」

「そして、将軍ご自身もまた、変わられました。伝え聞くところによれば、かつては自ら鍬を握り、民と共に泥にまみれたとか。その行いが、并州の民の心を、完全に掴んでおります。あれは、もはや虎牢関で見たただの猛将ではございませぬ。民の痛みを、その身で知る、真の君主にございます」


董承は羊皮紙の上に描かれた緻-密な国家計画を見つめた。

知の陳宮と徐庶。武の張遼と高順。そして、それら全てを束ねる、成長した君主、呂布。

并州は、彼が想像していた以上に、強固で、そして理想的な国となりつつあった。


董承は、最も聞きたいことを、静かに問うた。

「して、呂布将軍本人はどうであったか。あの男は、真に漢室の忠臣と言えるのか。それとも、董卓や曹操と同じく、帝を傀儡とする野心家か」


密偵はしばし黙考した後、意を決したように答えた。

「…恐れながら、申し上げます。あの御方は、そのどちらでもありませぬ」

「何?」

「あの御方は、確かに民を愛し、『義』を重んじておられる。漢室への忠義も、おそらくは本物でしょう。ですが、その一方で、その魂はあまりにも気高く、そして自由すぎる。帝のためとはいえ、誰かの臣下に収まる器ではございませぬ。あれは…」

密偵は言葉を選びながら、絞り出すように言った。

「…あれは、自らが『天』となるべき男。人の世の法や、主従の関係を超えた、規格外の存在にございます」


その、あまりにも衝撃的な報告に、董承は長い間、言葉を失っていた。


報告を聞き終えた董承は、密偵を下がらせると、一人、深く腕を組んだ。

彼の脳裏では、二人の英雄が巨大な天秤にかけられていた。

漢室復興という、このあまりにも重い玉璽を、果たしてどちらの手に委ねるべきか。


先月、帝はついに、耐えきれなくなった。

曹操が、帝の意に反して車騎将軍を処刑した夜、若き天子は董承を密かに召し出し、涙ながらに訴えたのだ。「国舅よ、朕はもう耐えられぬ。あの男の専横は、董卓をも凌ぐ。奴は、朕の四肢を切り落とし、魂までも支配する気だ」と。


一人は、并州の呂布。

曹操を討つという、ただその一点においては、これ以上ないほどの最強の「矛」だ。

だが、その力はあまりにも強大すぎる。制御不能な「鬼神」。下手に頼れば、曹操という狼を追い払った後に、漢室そのものがその巨大な覇気に飲み込まれかねない。嵐を呼んで、洪水を起こすようなものだ。


もう一人は、河北の劉備。

今は袁紹の下で雌伏しているが、その仁徳と漢室への想いは、天下の誰もが知るところ。

力は呂布に遥かに劣る。だが、それ故に御しやすい。帝を尊び、大義を違えぬ「忠臣」となる可能性を秘めている。あれは、まだ磨かれていない「玉」だ。だが、その輝きは、正しく、そして温かい。


「…鬼神の矛に賭けるか、仁徳の玉に賭けるか…」


董承は、誰に言うでもなく呟いた。

あまりにも、究極の選択。


(いや、まだだ…)

彼は、自らの焦りを諌めるように首を振る。

(まだ、その時ではない)

「…いずれにせよ、曹操を討つには、どちらかの力が必要だ。袁紹と曹操が官渡で互いに疲れ果てる、その時こそが、我らにとっての好機…」

その時までに、決めねばならぬ。

この漢王朝の最後の希望を、どちらの英雄に託すのかを。


董承は、懐から一枚の白絹を取り出した。

それは、あの夜、帝が自らの指を噛み切り、その血で「曹操を討て」と記した、あまりにも悲痛な密勅、「衣帯詔」。

彼は、その黒ずんだ血文字をじっと見つめた。

この、若き皇帝の絶望に応えてくれるのは、果たして、どちらなのか。


彼の視線は地図の上、北の并州と、河北のぎょうとを、何度も、何度も行き来していた。

乱世の盤面は、まだ動かない。

だが、水面下では次なる巨大な嵐が、確実にその渦を巻き始めていた。

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