幕間:白龍の決意
幕間:白龍の決意
夜のしじまが、旅の疲れを癒すように、宿屋の一室を静かに包んでいた。
趙雲は、窓から差し込む冴え冴えとした月明かりだけを頼りに、愛用の白銀の槍を黙々と手入れしていた。
湿らせた布で、旅の道中で付着したであろう見えぬ塵を拭い去っていく。磨き上げられた穂先が月光を鋭く反射し、まるでそれ自体が小さな月であるかのように、冷たく清冽な光を放った。この槍だけが、乱世を独り彷徨う彼の、唯一の友であり、己の魂を映す鏡であった。
彼は、その冷たい鉄の感触を確かめながら、今日一日で見聞きしたことを、頭の中で静かに反芻していた。
并州は、確かに「楽土」であった。君主は民に慕われている。
その姿は、彼が探し求めていた理想に、あまりにも近かった。
だが、だからこそ思考はより慎重にならざるを得なかった。希望が大きければ大きいほど、それが偽りであった時の失望もまた、大きい。この乱世で、理想に燃えた若者が現実の濁流に飲み込まれていく様を、彼は嫌というほど見てきたのだから。
脳裏に、これまで自らが仕え、あるいは見聞きしてきた君主たちの姿が、鮮やかに蘇る。
河北の袁紹。名門の出でありながら、その器はあまりに小さかった。
旧主・公孫瓚。初めは気高い武人であったはずが、長き戦の中で心は猜疑心という毒に蝕まれ、自滅していった。
そして――劉備玄徳。
趙雲の心が、ふと熱を帯びる。
あの人の仁徳に触れた時、確かに心は震えた。敗者の側にありながらも、誰一人見捨てぬその姿。
だが、あの頃の玄徳殿は、あまりに小勢で、あまりに孤立しておられた。理想は確かにあった。だが、天下を動かす力はまだ無かった。
(義だけでは、民は救えぬ。だが力だけでは、覇へと堕ちる)
趙雲は胸中で、静かに呟く。
ならばこそ、自分は今、この并州に来ね-ばならなかったのだ。
ここには、天下無双の「力」を誇る飛将軍がいる。そして民は、その「力」に怯えるのではなく、心から慕っている。
もしその力が真に義のために振るわれているのなら――それは、仁と力を併せ持つ、理想の主君となり得る。
夜が明け、東の空がわずかに白み始めた。
趙雲は槍をそっと壁に立てかけ、夜明けの冷たい光が差し込む窓辺に立った。晋陽の方角から吹いてくる風が、彼の頬を優しく撫でる。
(この疑念もまた、書物や噂で判断することではない。直接お会いし、その瞳を、その魂の輝きを、この趙子龍の目で見極めるしかない)
彼は、自らの魂に、静かに、しかしはっきりと誓いを立てた。
まず一つ。もし呂布将軍が真に民を愛し、漢室を思う「義」の君主であるとこの魂が感じたならば、その時は、この槍、この命、その全てを捧げ、あの人の天翔ける翼の一枚となろう。
次に一つ。だが、もしその瞳の奥に、民を顧みぬ「覇」の驕りを見たならば――静かに去るのみ。我が魂を、そのような主に売り渡すことはできぬ。
そして最後に一つ。万が一、その力が天下の民を今以上に苦しめる大禍となると判断したならば。その時は、再び放浪の身に戻り、いずれ、あの仁徳の龍を探し出し、共に并州の鬼神を正すために槍を振るおう。
朝靄の中、晋陽へと向かう彼の背中には、もはや旅人の迷いはなかった。
ただ、真実を見極めんとする求道者のような、静かで、しかし鋼のような覚悟があった。
白き龍は、ただの仕官先を探しているのではない。
己の魂を託すべき「義」と「力」の均衡を、この乱世に示すべき光を――求めていた。