第四十六ノ二話:楽土の逸話
第四十六ノ二話:楽土の逸話
秋風が吹き渡る晋陽近郊の宿場町。
街道を行き交う旅人で賑わうその一角、最も評判の茶屋には、昼時とあって様々な人々の声が入り混じっていた。
趙雲は、旅の塵を洗い流すように一椀の茶を手に取り、深く息をついた。
湯気に乗って広がる香ばしい茶葉の香りが、胸の奥の疲労を少しずつほぐしていく。
その心地よさに身を委ねながら、彼は静かに耳を澄ませた。
――并州の玄関口で見たものは、確かに驚くべき光景だった。
だが、本当に知りたいのは制度や法の堅牢さではない。
そこに暮らす民の「心」が、真に安らいでいるのかどうか。
その答えは、権力者の言葉ではなく、無名の民の飾らぬ声にこそ宿る。
趙雲はそう考え、あえて耳を開いた。
やがて、隣卓に座った人の良さそうな老人と、荷を下ろしたばかりの若い行商人の会話が耳に届いた。
「じいさん、今年も豊作ですな。これも、呂布将軍のおかげだ」
「うむ」
老人は皺深い顔に笑みを刻み、茶碗を揺らした。
「まさか、あの飛将軍様が我らと一緒に泥まみれになって鍬を振るってくださるとは、夢にも思わなんだわい」
趙雲の耳が、ぴくりと動いた。
天下無双と謳われる武人が、民と共に鍬を握る――想像を遥かに超えた姿であった。
「へえ、本当ですかい。俺っちが聞いた噂じゃ、虎牢関で鬼神のようだったって話ですがね」
「それもまた本当じゃろうよ」
老人は楽しげに頷いた。
「じゃがのう、わしらが見た将軍様は違った。黒沙とかいう、とんでもねえ賊を討ち取り、并州の民の仇を討ってくださった時も、少しも偉ぶらず、ただこう仰ったんじゃ。『民との約束を果たしただけだ』とな」
その言葉に、行商人が感嘆の息を漏らす。
茶屋の奥から顔を出した女将までもが、誇らしげに口を添えた。
「将軍様だけじゃありやせんよ。あのお方のご家族もまた、この国の宝のようなお人たちでさね」
「ほう、宝ときたか」
若者が茶碗を置き、興味津々に身を乗り出す。
「長女の暁様は陳宮様にも劣らぬ知恵者で、市や法の新しい仕組みはあのお方が立てられたって話ですし、三女の華様はまるで観音様のように慈悲深く、病人や貧しい者に施しを欠かさねえ」
「それから次女の飛燕様だな」
老人が目尻をしわくちゃにして笑った。
「ちとお転婆で、槍を振り回すのが大好きなお姫様じゃが、その腕前は並の将軍なんぞ裸足で逃げ出すほどよ。あの姫様がおる限り、并州の空は安泰ってもんじゃ」
場は大きな笑いに包まれ、茶屋の空気が一層あたたかく満ちていく。
その光景を、趙雲は静かに見つめていた。
天下無双の武勇。
民に寄り添う仁徳。
そして、娘たちを誇りとし、信頼を惜しまぬ父としての姿。
それらが一つに溶け合い、世に伝わる「ただの猛将」という像とはまるで違う、温かく大きな人間像を描き出していた。
(……そうか)
心の奥で凝り固まっていた疑念が、音を立ててほどけていく。
(この御方こそ……真の英雄やもしれぬ)
武の威だけで人を縛るのではない。
法の網だけで人を束ねるのでもない。
その「徳」によって、人が心から従う――。
旧主・公孫瓚のもとでは見られなかった、真の「義」。
袁紹や曹操からは決して感じられぬ、「仁」。
自らが生涯をかけて探し求めた理想の主君像が、今、目の前に確かな姿を見せ始めていた。
胸の奥に、熱いものが込み上げる。
孤独な彷徨の旅路。
仕えるべき光を探して彷徨い続けた長い日々。
その果てに、ようやく「終着点」が見えたのかもしれない。
(この胸の高鳴り……武人の本能が告げておる。これは、運命の鐘の音だ)
趙雲は茶碗を静かに卓に戻すと、茶屋の主人に向き直った。
「……御主人。晋陽の城へは、どう行けば一番近いか」
その声音には、もはや旅人の迷いはなかった。
ただ一人の武人が、仕えるべき光を見出し、歩み出そうとする決意の響きだけが宿っていた。
趙雲の旅は、もはや彷徨ではない。
明確な目的を持った、確かな一歩となったのだ。