第八ノ三話:軍師の配慮
第八ノ三話:軍師の深慮
虎牢関の前に布陣した連合軍。その先鋒を任された呂布は、血の滾るような興奮を覚えていた。敵の将は、黒沙と名乗る異形の猛将。その全身から放たれる禍々しい気は、呂布の武人としての本能を強く刺激した。
両者は、言葉を交わすのももどかしく、戦場の中央で激突した。方天画戟と鉄蒺藜骨朶が打ち合わされる音は、雷鳴のように響き渡り、両軍の兵士たちは息を飲んでその攻防を見守った。
後方の并州軍本陣で、陳宮は苦々しい表情でその戦況を見つめていた。
「…いかん。将軍が、熱くなりすぎている。あの黒沙という男、ただの蛮族ではない。その戦いぶり、あまりに老獪。このままでは、将軍は相手の術中にはまってしまう…」
彼は、呂布が出陣する前に、丁原にこう進言していた。「将軍は、強敵を前にすると我を忘れる癖がおありです。万が一に備え、手を打っておくべきかと」
丁原もその懸念を認め、陳宮に一任していた。陳宮の策は、狙撃のような不確実なものではない。より確実で、そして呂布の誇りを傷つけないための、別の手立てであった。
陳宮は、傍らに控えていた張遼に、静かに命じた。
「文遠。頃合いだ。第二陣を率いて前進し、黒沙の側面を脅かせ。ただし、決して深入りはするな。目的は、将軍と黒沙を引き離し、一度、戦場の熱を冷ますことにある」
「承知!」
張遼は、精鋭五百騎を率いて、呂布たちの戦場へと向かって進軍を開始した。
その頃、呂布と黒沙の死闘は、数十合を超え、佳境に入っていた。焦りから、呂布が力任せに大技を繰り出し、黒沙がそれを待ってましたとばかりにかわす。がら空きになった胴体へ、鉄蒺藜骨朶が必殺の威力を込めて振り下ろされる!
(しまった…!)
呂布が死を覚悟した、その瞬間。
「でやぁぁぁっ!」
横合いから、張遼率いる并州騎兵隊が、鬨の声を上げて黒沙軍の側面に突撃を仕掛けた。黒沙は、呂布にとどめを刺すことよりも、自軍の側面が崩される危険を優先し、忌々しげに舌打ちすると、呂布から距離を取って部隊の指揮へと戻った。
九死に一生を得た呂布は、荒い息をつきながら、駆けつけた張遼を見た。
「張遼…なぜ来た。俺の戦いの邪魔をするな」
その声には、助けられたことへの安堵よりも、一騎打ちを邪魔されたことへの苛立ちが滲んでいた。
「某の判断ではありませぬ。陳宮殿のご指示です。『将軍の武を、無駄死にさせるわけにはいかぬ』と」
「…陳宮が」
呂布は、後方の本陣を睨みつけた。あの軍師め、余計なことを。だが、同時に、自分の動きが全て読まれ、制御されていたことへの、かすかな寒気を感じた。そして、冷静さを取り戻した頭で、先程の戦いを振り返る。
(油断した…! あの男、ただの蛮族ではない…! 力も技も、そして俺を焦らせる狡猾さも併せ持っている。陳宮の助けがなければ、今頃…)
初めて感じる、本物の強敵に対する恐怖。そして、それを上回る、武人としての魂の震え。しかし、冷静さを取り戻したはずの彼の心に、「ここで奴を仕留めねば、味方に犠牲が出る」という、焦りも生まれていた。
「面白い…!」呂布の口から、思わず笑みが漏れた。その瞳には、獲物を見つけた猛獣のような、獰猛な光が宿っていた。「貴様のような奴がいたとはな…! 良いだろう、黒沙とやら! この呂布奉先、今度こそ本気で相手をしてやる!」
戦場は、ただの武勇のぶつかり合いだけでは決しない。その裏で張り巡らされる知略の網が、英雄たちの運命を静かに操り始めていた。
呂布は、陳宮の「智」によって救われたことを自覚しつつも、その上で、自らの「武」の力だけで再び死線へと身を投じようとしていた。その危うい姿を、陳宮は複雑な、しかし確かな手応えを感じる眼差しで見守っていた。
(そうだ、将軍。あなたの武は、我らが支える。それでこそ、あなたは真の鬼神となれるのだ)
しかし、その呂布の焦りが、最大の隙を生むことになる。




