幕間:軍師の耳
幕間:軍師の耳
秋の日差しが、晋陽の軍師府に静かに差し込み、空気中に舞う無数の塵を黄金色の粒子のようにきらめかせていた。
陳宮は、その光の帯を眺めながら湯気の立つ茶をゆっくりと口に含んだ。茶葉のほろ苦い香りが、思考で疲れた頭を心地よく鎮めてくれる。
彼の周りには并州全土から集められた報告書や、洛陽の復興計画に関する竹簡が山のように積まれている。だが、彼の心は今、この部屋にはなかった。
(…動かぬな、孟徳も、本初も)
遥か南、官渡の地。二人の英雄が率いる大軍は、依然として睨み合ったまま決定的な戦端を開かずにいた。その静けさは嵐の前の不気味な静寂。どちらかが動けば、天下は一気に血の濁流に飲み込まれるだろう。
その「時」が来るまで、我らはただ耐え、力を蓄えるのみ。主君・呂布が下した決断は正しい。だが、その「待つ」という行為がこれほどまでに心を苛むものかと、陳宮は自嘲気味に息をついた。
その知的な静寂を破り、若い、しかし落ち着いた足音が書庫に近づいてきた。
「先生」
弟子の徐庶であった。その手には、并州北端、雁門関の守将から届いたばかりの定期報告の書状が握られている。
「元直か。何か変わったことでもあったか」
陳宮は顔を上げずに静かに問うた。
「いえ、大筋では平穏そのものです。国境付近の異民族に大きな動きはありませぬ。商人たちの往来も日に日に活発になっているとのこと。まさしく、先生が描かれた通りの『楽土』となりつつありますな」
徐庶の声には、師への純粋な尊敬の念がこもっていた。
だが、その声の奥にわずかな、しかし拭いきれない緊張感が滲んでいるのを、老獪な軍師は聞き逃さなかった。
彼はゆっくりと顔を上げ、弟子の顔を見つめた。
「…だが、何か、お前の心をざわつかせるものが、そこには書かれていたと見える。申してみよ」
徐庶は、師の全てを見透かすような瞳に一瞬だけたじろいだが、すぐに意を決したように書状の末尾を指し示した。
「…こちらに、守将自身の筆で追記が」
陳宮は書状を受け取ると、静かに目を通した。
『―――追伸。数日前、常山の方角より、一騎の、腕利きと思われる旅の武者が入国せり。その出で立ち、見事なる白馬に、一点の曇りもなき白銀の鎧。年は若いが、その身のこなし、そして何よりその瞳に宿す気配は、常人のそれにあらず。まるで、龍が人の姿をとったかの如し。身分を尋ねるも、「趙雲、字は子龍。しがない旅の者」と答えるのみ。怪しい動きは見せなんだが、念のため、ご報告まで』
「…ほう」
陳宮の口元に、面白くてたまらないといった笑みが浮かんだ。
「白馬に、白銀の鎧。そして、名は趙雲、か。…なるほど、これは確かに、ただの旅人ではあるまいな」
「先生!」徐庶の声に焦りの色が混じる。「常山は今や袁紹の息がかかった土地。そして白馬といえば、今は亡き公孫瓚殿の親衛隊『白馬義従』…! 旧主を滅ぼした袁紹に魂を売り、その手先となって我らの内情を探るために潜り込んできた、と考えるのが最も自然ではありますまいか! あるいは、ただ行く当てをなくしただけやもしれませぬが…いずれにせよ、その武、計り知れぬものがあれば危険な存在です。直ちに捕縛し、その真意を問い質すべきかと!」
それは軍師として、あまりにも正しく合理的な判断であった。
だが、陳宮は楽しげにそれを手で制した。
「元直よ、落ち着け。お前の読みは正しい。だがな、物事を一つの角度からだけ見てはならん」
陳宮は立ち上がると、窓辺に歩み寄り、活気に満ちた晋陽の街並みを見下ろした。
「我らが蒔いた善政の種がようやく芽を出し、その評判が国境を越えて風に乗って広まり始めたということよ。その風に誘われて、野に埋もれた才ある士が我らを頼って来たとしても、何ら不思議はない。お前が、かつてそうであったようにな」
その思いがけない言葉に、徐庶はハッとして顔を赤らめた。そうだ。自分もまた、この并州の噂を聞きつけ、一縷の望みを託してこの地へ来たのではなかったか。自分はあまりに危険性ばかりを警戒し、この并州が持つ「徳」の力を、見落としていたのかもしれない。
「…では、先生は、この趙雲という男を、信じろと?」
「いや」陳宮はきっぱりと首を振った。「信じるのではない。試すのだ」
彼は筆を取り、返書を自ら書き始めた。その動きは淀みなく、冷徹なまでの決意に満ちていた。
『―――その白龍、しばらく自由に泳がせてみよ。ただし、その鱗一枚、羽一枚たりとも、見失うことなかれ』
「殿が、お前の才を見抜かれたように」と、陳宮は徐庶に向き直る。「我らもまた試さねばならぬ。この并州に集う者が、真に我らの同志となりうるか、その器量をな。この趙雲とやらが真に『義』を求める士であるならば、彼が次に向かうのは都の華やかさではない。必ずや、民の声が聞こえる場所へと、その足が向かうはずだ」
彼の瞳には、まだ見ぬ「龍」の到来が并州にとって吉と出るか凶と出るか、それを見極めんとする軍師としての鋭い光が宿っていた。そして、その奥には、新たな才能の出現に対する純粋なまでの知的な好奇心と、かすかな期待が静かに燃えていた。
(さて、趙子龍とやら。お前のその魂、果たして、我らが殿の器に値するかどうか。この陳宮の目で、とくと、見定めさせてもらおうか)
北の楽土に舞い込んだ一匹の白龍。その全ての動きが、すでに晋陽の巨大な蜘蛛の巣の中心で静かに待ち構える、二人の軍師の掌の上にあることを、まだ龍自身は知る由もなかった。