第四十六話:白龍、并州に入る
第四十六話:白龍、并州に入る
吹き抜ける風は、故郷・常山よりもさらに冷たく、そして乾いていた。それは単なる空気の流れではない。北方の厳しい大地が持つ、飾り気のない、しかし揺るぎない生命力の匂いを運んでくる。
趙雲は、愛馬・白龍の背に揺られながら、初めて足を踏み入れる并州の大地を、鋭い、しかし好奇に満ちた目で見渡していた。
故郷で聞いた噂は、果たして真実なのか。
天下無双の武を持ちながら、民のために鍬を握るという、謎多き君主、呂布奉先。
その男が治める国は、本当に「楽土」の名に値するのか。あるいは、それもまた、乱世によくある民を欺くための甘言に過ぎないのか。
(この趙子龍の目で、しかと見極める)
彼の心は澄み切った秋の空のように静かであったが、その奥底では、仕えるべき光を求める武人の魂が、熱い期待と冷徹な疑念の間で揺れていた。
その答えは、并州の玄関口である雁門の関所で、早くも示された。
彼がこれまで見てきた関所といえば、役人が威張り散らし、旅人から袖の下を要求するのが常であった。特に、自分のような見慣れぬ武装した旅人など、格好の的となるはずだ。その度に、彼は自らが信じる「義」と、無用な争いを避けたいという現実の間で、静かな怒りを押し殺してきた。
だが、雁門の関所は全く違っていた。
役人たちの背筋は伸び、その態度は尊大ではなく、むしろ礼儀正しい。旅人たちの身分を一人一人丁寧に確認し、疑わしい点があれば穏やかに、しかし毅然として問い質す。その瞳には自らの務めへの誇りと、この国を守るという確かな意志が宿っていた。不正や横暴の入り込む隙は、微塵も感じられない。
そして何より趙雲を驚かせたのは、関所の壁に張り出された一枚の高札であった。
風雨に晒され、少し古びてはいるが、そこに書かれた墨痕鮮やかな文字は、この国の魂そのものを雄弁に物語っていた。
『法の下では、全ての民は平等なり。役人の不正を見聞きしたる者は、これを州府に訴え出よ。訴え出た者の名は固く秘し、その勇気に報いん』
――并州牧 呂布
その、あまりにも明快で民に寄り添った布告に、趙雲はしばし言葉を失った。
法とは、弱き民を縛るためのものではない。むしろ、強き者、権力を持つ者の横暴から民を守るための盾なのだと、この布告は高らかに宣言していた。
彼の、常に冷静な魂が、熱い衝撃に打ち震えた。
(…噂は、真実やもしれぬ)
関所を抜け、都である晋陽へと向かう街道もまた、彼の驚きをさらに大きなものにした。
道は驚くほどよく整備され、定期的に設けられた見張り台には常に兵士の姿が見える。その兵士たちの顔にも、関所の役人と同じ誇りと規律の色が浮かんでいた。これならば商人たちも安心して旅ができるだろう。
そして、道沿いの村々。
彼が最も心を動かされたのは、どの村にも必ず、質素ながらも清潔な学堂が設けられ、子供たちの朗々とした声が響いていることであった。
乱世にあって、人はまず目先の食糧と安全を求める。だが、この国の為政者はそのさらに先、次の世を担う子供たちへの教育を怠らない。この国が目指しているのが、ただの束の間の安寧ではなく、百年先まで続く真の平和なのだと、その声が何よりも雄弁に物語っていた。
さらに、畑のあちこちには新しい水路が張り巡らされ、これまで痩せ地であったであろう土地にも水が豊かに行き渡っている。民がただ働くのを待つのではなく、国が率先して民が豊かになるための基盤を整えているのだ。
家の壁は新しく塗り直され、畑は隅々まで耕され、黄金色の稲穂が秋風に豊かに揺れていた。何より、そこに住まう民の顔に、乱世の影がない。趙雲がこれまで見てきた、飢えと恐怖に怯える民の顔ではない。明日への希望を信じ、自らの手で暮らしを立てることに喜びを見出している、強く、そして穏やかな顔だった。子供たちの屈託のない笑い声が、あちこちから聞こえてくる。
亡き丁原公が築かれた善政の礎があるとはいえ、主を失った後の混乱から、これほど短期間でここまで国を立て直すとは…。
この呂布奉先という男、ただの猛将ではない。卓越した為政者としての才覚も併せ持っているというのか。
彼の胸に、畏敬の念が静かに、しかし力強く込み上げてくる。
この地の領主、呂布という男に会ってみたい。
そして、問うてみたい。
貴方が目指す「義」とは、一体何なのか、と。
趙雲の心は固まりつつあった。
白き龍は、自らが翼を休めるべき安住の地を見つけようとしていた。だがその前に、この国の「心」とも言うべき君主の素顔を自らの目で見極める必要があった。
彼は愛馬の手綱を引き、旅人たちが集う街道沿いの大きな宿場町へと、その進路を向けた。そこで聞こえてくるであろう民の生の声こそが、最後の答えをくれるはずだと信じて。