第四十五ノ二話:白龍、北へ
第四十五ノ二話:白龍、北へ
秋も深まり、木々の葉が色褪せて、冷たい風に舞い上がる頃。
冀州・常山の古道を、一陣の白き疾風が駆け抜けていった。
風の中心にいるのは、一騎の若武者。
白銀に輝く鎧は一点の曇りもなく磨き上げられ、秋の日差しを浴びて月光のごとき光を放つ。背に負う長槍は、流星をそのまま鍛え上げたかのように鋭く白く、跨る馬までもが純白であった。その鬣は雪のように風になびき、蹄が地を蹴るたびに、大地が微かに震える。
その姿は、人の世に降臨した天界の武神か――否、彼こそは「義」の化身そのものであった。
男の名は、趙雲。字は子龍。
旧主・公孫瓚が滅び、仕えるべき光を喪ってから、すでに一年近くの時が過ぎていた。彼は一度、己の原点に戻るべくこの地へと帰還したものの、その心に安らぎはなかった。
故郷の空は北方を掌握した袁紹の威光に陰り、中原では曹操が覇道を広げ、仁徳の人と聞いた劉備ですら、今はその麾下に屈したと伝わる。
(この天下に、我が槍を捧げるに値する主は、もはやおられぬのか……)
胸を灼く失望を抱え、趙雲は雌伏していた。ただ己を律し、武を磨き、天命が再び下る日を待つ。だが、その心の奥底では、一つの恐れが影を落としていた。このままでは、己が信じる義と共に、この槍もまた錆びついてしまうのではないか、と。
そんなある日、村の者たちとの会話の中で、思いもよらぬ噂を耳にする。
「子龍よ、聞いたか? 隣の并州は今や北方の楽土だそうな」
「呂布将軍が治めるようになってから、法は公正で、俺たちのような商人でも安心して行き来できる」
「顔良・文醜を討ち、黒沙賊を滅ぼした、その無双の武を持ちながら、民に驕らぬお方だ。あれこそ真の英雄に違いない」
趙雲は耳を疑った。
(呂布……字は奉先、か)
その名は天下に轟く。だが、彼に対しては「人の理を越えた鬼神」といった畏怖と疑念が付きまとっていた。
(あまりに強大すぎるその力……それが真に「義」のために振るわれているのか。それとも、やがて天下を恐怖で覆い尽くす「覇」の刃となるのか……)
だが、故郷の者たちが語る并州の姿は、あまりに具体的で、虚言とは思えなかった。
笑う民、守られる暮らし、公正な法。そして何より、武ではなく仁で人を導くという噂。
もし、それが真実であれば――。
(この子龍の槍を預けるべき御方が、まだこの乱世に残っているのかもしれぬ…!)
心の奥底で消えかけていた火が、再び強く燃え上がる。
彼は、曇りなき目で真実を見極めることを誓った。
趙雲は愛馬・白龍の首筋を力強く叩いた。
「行くぞ、相棒。我らが最後に仕えるべき御方を、見つけに行くのだ」
白馬はその声に応えるかのように天へと響く嘶きを放つと、その蹄音は雷鳴のごとく大地に轟いた。白き流星は、一路、西を目指す。
秋の澄んだ空気を切り裂きながら、彼の瞳には燃えるような光が宿っていた。
希望と使命。
理想の義将に出会うため、そしてもしや天下の大禍と化す存在であれば、その刃となって断つために――。
「真の義将か、ただの鬼神か。この趙子龍の目で、必ず見極める!」
その宣言は風に乗り、常山の山脈にこだました。
運命に導かれるかのように、もう一つの孤高の魂が、北の楽土を目指す。
その魂は、奇しくも、同じく己の魂を燃やす場所を求め、籠を破って飛び立った若き燕と、同じ空の下にあった。
白き龍と黒き燕。
二つの魂が并州の地で交錯する、その時は、もう間近に迫っていた。