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幕間ノ二:二輪の花

幕間ノ二:二輪の花

飛燕が、黒い嵐のように城を飛び立ってから、三日が過ぎていた。


晋陽しんようの城内は、表面上、何も変わらない日常が流れている。官渡の戦況を伝える伝令が時折駆け抜けていく他は、民は穏やかに秋の収穫に勤しみ、兵士たちは黙々と訓練に励んでいた。

だが、城の最も奥深く、呂布家の私室が並ぶ一角だけは、一つの大きな喪失によって生まれた、冷たい静寂に支配されていた。


ぎょうは、自室の灯火の下で、一枚の羊皮紙に広げられた并州の地図を、ただぼんやりと眺めていた。

傍らには、夫である徐庶が夜食にと用意してくれた温かい粥が、すっかり冷めている。

竹簡の文字が、全く頭に入ってこない。

陳宮様と議論を重ねてきた、洛陽の新たな税制案。答えを出さねばならぬ問題は、山積している。

だが、彼女の思考は、どうしても、一つの点に引き戻されてしまうのだ。


(…飛燕…)


妹が残した、あの短い置き手紙。

『少し、風に当たってきます』

その、あまりにも子供じみた強がりの裏にある、深い孤独と悲痛なまでの叫び。

聡明な姉は、その全てを痛いほど理解していた。


(なぜ、気づいてあげられなかったのだろう…)

自責の念が、彼女の胸を締め付ける。

が、馬超様という光を見つけた時。

私が、元直様という魂の半身を得た時。

あの子は、私たちの幸せを祝福しながらも、その影で一人、どれほどの焦燥と孤独に苛まれていたことか。

分かっていたはずなのだ。

だが、自分は自分の幸せに少しだけ浮かれて、妹の心の最も深い場所にある痛みに、気づかぬふりをしていたのではないか。


(姉、失格ね…)


彼女はそっと窓を開け、冷たい秋の夜気を吸い込んだ。

父上は、あえてあの子を行かせた。高順殿に影の護衛をつけさせてはいるが、それは最後の安全装置に過ぎない。基本的には、あの子自身の力でこの試練を乗り越えろと、そう言っているのだ。

父上の判断は、君主としては正しいのかもしれない。

だが、姉としては、到底受け入れられるものではなかった。

北の辺境は危険すぎる。腕が立つといっても、あの子はまだ世間知らずの十六の娘なのだ。もし、悪しき者の奸計かんけいや数の暴力の前に、あの子の誇りが、その命が踏みにじられたら…そう思うと、いてもたってもいられなかった。


そこまで考えた時、背後で、そっと扉が開く音がした。

「…姉様」

振り返ると、そこには華が、温かい薬湯の盆を手に、心配そうな顔で立っていた。


「眠れないのですか?」

その声は、夜の静寂に溶けるように優しかった。


暁は、気丈に微笑んでみせた。

「華こそ。もう、夜も更けているわ」

「はい。でも、姉様の部屋の灯りがまだ灯っていましたから…。きっと、飛燕姉様のことで、お心を痛めておられるのではないかと…」


華は暁の隣にちょこんと座ると、湯気の立つ薬湯をそっと差し出した。

甘草の優しい香りが、張り詰めていた暁の心を、ふわりと解きほぐしていく。


「…ありがとう、華」

暁は、その温かい杯を受け取ると、初めて妹の前で、弱音とも言える本音を漏らした。

「…心配で、たまらないのよ。あの子は、あまりにも真っ直ぐすぎるから。その槍と同じで、一度振り下ろされたら、折れるまで止まれない。もし、悪い人間に騙されたり、その強さを利用されたりしたら…そう思うと…」

それは、普段は決して見せない、ただの姉としての、脆くか弱い素顔であった。


華は、そんな姉の姿に胸を痛めながらも、静かに、しかし強い光を宿した瞳で言った。

「大丈夫ですわ、姉様」

その声には、不思議なほどの確信がこもっていた。


「なぜ、そう言えるの?」

暁が、訝しげに問い返す。


「飛燕姉様は、とてもお強いですもの」

華は、にこりと微笑んだ。

「それに、姉様はいつも難しい書物を読んで、先の先までお考えになるけれど、華にはそういうのは、よく分からないのです。でも、分かることもあります」

彼女は、自らの胸にそっと手を当てた。

「…人の心は、温かい方へ、優しい方へと、自然と流れていくものだと思うのです。飛燕姉様は、口ではああ仰っていても、本当はとても優しい方ですもの。きっと、その優しさが、姉様を悪い道から守ってくださいますわ」

「それに…」

華は、窓の外に広がる満天の星空を見上げた。

「…丁原のお爺様と、張譲のお爺様が、きっと空の上から見守ってくださっています。あの、お二人ともが、可愛い孫娘を放っておくはずがありませんもの」


その、あまりにも純粋で、何の屈託もない信頼。

それは、暁が持つ計算や論理の世界とは全く違う次元にある、もう一つの「真理」であった。

人の善性を、そして目に見えぬ絆の力を、ただひたすらに信じる心。

仁。

妹が持つ、その、あまりにも大きく温かい力が、今、姉の冷え切った心をじんわりと温めていくのを、暁は感じていた。


「…そうね。華の言う通りかもしれないわ」

暁の口元に、ようやく自然な笑みが浮かんだ。

そうだ。私にできるのは、ただ心配することではない。

あの子を、信じて待つことだ。


二人は、言葉はなくとも、同じ想いを共有していた。

(早く、帰ってきて、飛燕)

(三人一緒でなければ、意味がないのよ)

(私たちが、あなたの帰る場所を、必ず守っているから)


暁は残っていた薬湯を一気に飲み干した。

「華、ありがとう。少し、元気が出たわ。さあ、もう休みましょう。あなたも、眠いでしょう?」

「はい、姉様」


華が部屋を出て行った後、暁は机の上に広げられていた并州の地図をもう一度見つめた。

だが、その目に映っているのは、もはや冷たい国境線や兵の配置図ではない。

そこに生きる民の顔。

そして、その民を守るために戦い、今、独り荒野を彷徨っているであろう、愛しい妹の姿。


(待っているわ、飛燕)

(あなたが、どんな嵐に出会い、どんな風を連れて帰ってくるのか。この姉が、全て受け止めてあげるから)


残された二輪の花は、嵐の中へ飛び立っていった妹の無事を祈り、そして、自分たちが彼女の「帰るべき巣」であり続けようと、静かに、しかし強く心に誓うのであった。

知の姉は、妹を信じることで自らの不安を乗り越え。

仁の妹は、姉を癒すことで自らの存在価値を確かめる。

三姉妹の絆は、離れていてもなお、互いを強く、そして確かに支え合っていた。

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