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幕間:父のまなざし

幕間:父のまなざし

秋風が冷たさを増してきた夕刻。晋陽しんよう城の一室で、呂布は静かに報告を受けていた。


彼の前に膝をつくのは、腹心の将・高順。その表情は常と変わらず無表情だが、言葉の端々には隠しきれぬ緊張が滲む。

「…以上が、飛燕様の今朝からの足取りにございます。お一人で北の関所を抜けられた後、その姿を見失いました」


高順は、わずかに間を置いて続けた。

「追手を差し向け、お連れ戻しいたしましょうか?」


呂布は、娘が残した短い置き手紙を手に、しばし黙り込んでいた。


『少し、風に当たってきます』


あの勝気な娘らしい、短く、そして少しだけ意地を張ったような筆跡。


娘の身を案じる気持ちが、腹の底から湧き上がってくる。

北の辺境は、まだ匈奴の残党がうろつく危険な土地だ。ましてや、うら若き娘の一人旅など、あまりに無謀。

(今すぐ、連れ戻すべきだ)

父親として、そう叫ぶ自分がいる。


だが、彼の脳裏に、あの夜の、娘の涙と悲痛な叫びが蘇る。


『父上だけは、この槍を、私の魂そのものだと、分かってくださっていると思っておりました…!』


(俺は…あいつの魂を、この城に縛り付けておいて良いのか…?)


「…いや、良い」

呂布は、ゆっくりと首を振った。

「行かせてやれ」


驚く高順に対し、彼は、窓の外に広がる雄大な并州の山々を見つめながら、静かに続けた。

「籠の中の燕は、いつまで経っても燕のままだ。自らの翼で嵐を学び、天を翔けるはやぶさとなるか、あるいは翼折れて地に落ちるか…それも、あいつ自身の天命よ」


それは、娘の力を信じる父親としての、そして君主としての、苦渋の決断だった。


「…御意」

高順は、主君の真意を悟り、静かに頭を下げた。彼の目には、主君の苦悩を理解する深い忠誠の色が浮かんでいる。そして、部屋を辞そうと、静かに身を翻した。


「―――待て、高順」


呂布が、低い声で呼び止めた。

高順が振り返ると、呂布はどこか遠い目をして、呟いていた。


(…あるいは、この父が見つけられぬ『風』が、あの娘を見つけてくれるやもしれん)


あの娘の、荒れ狂う嵐のような槍を真正面から受け止め、そして、共に天を翔けてくれるような、途方もない男。

そんな男がこの広い天下のどこかにいるのならば、それもまた一興か――。


彼は、父親としての感傷を、深く息を吸い込むことで心の奥底に押し殺すと、再び、絶対的な君主の顔に戻った。

その瞳は、もはや憂いを映してはいない。ただ、己が最も信頼する臣に、最も困難な任務を託す、揺るぎない光だけが宿っていた。


「…高順。お前にしか頼めぬことがある」

「はっ」

「お前の部下の中から、最も腕が立ち、そして何より、最も規律に厳格な者を数名だけ選べ。己の感情を殺し、ただ命令のみを遂行できる者たちをだ」


その言葉に、高順はわずかに目を見開いた。主君が、この任務にいかなる資質を求めているかを、瞬時に理解したからだ。


「姿を見せるな。決して、手を出すな」呂布の声が、さらに低くなる。「たとえ、あいつがどれほどの窮地に陥ろうともだ。ただ、影となりて、あいつが自らの力で何を掴み、何を失うのか、その一部始終を、この俺の目として見届けよ」

「はっ!」

「そして、もし…万が一、あいつの命に関わるようなことがあれば…」


呂布は一度言葉を切り、まるで己に言い聞かせるように、低い声で続けた。

「…その報せを受けた時が、俺が直々に出る時だ。それまでは、何があろうと、手を出すな。良いな」


それは救出の約束ではない。娘の運命を受け入れ、その責を全て自らが負うという、主君のあまりにも壮絶な覚悟。高順は、その血を吐くような想いを悟り、震える声を抑え、深く頭を垂れた。

「…御意。この高順、命に代えましても」


父親としての、不器用な愛情。

そして、娘の魂の自由を願う、君主としての非情なまでの覚悟。

呂布は、自らの心を鬼にして娘を嵐の中へ解き放ちながらも、その空から、決して目を離すことはなかった。

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