第四十五話:風を探す旅立ち
第四十五話:風を探す旅立ち
父と激しく衝突した、あの夜から数日が過ぎていた。
飛燕は自室に閉じこもり、荒れ狂う心の嵐に、ただ独り耐えていた。
窓の外からは、秋の澄んだ空気が流れ込んでくる。
だが、その爽やかさすら、今の彼女の心には届かない。
壁に立てかけてある愛用の長槍が、鈍い光を放っている。
あれは、父が自分に与えてくれた、魂そのものだと思っていた。
だが、その父に、自分の魂は届かなかった。
『良き伴侶を探してやろう』
父の言葉を思い出すたびに、胸の奥が灼けるように痛んだ。
怒り。分かってくれないことへの失望。
そして、そんな父にすら、自分の本当の苦しみをうまく言葉にして伝えられない、不甲斐ない自分への憤り。
様々な感情が濁流のように渦巻き、彼女の誇り高い心をずたずたに引き裂いていた。
だが、いつまでもこうして泣いている自分ではない。
彼女は乱暴に涙を拭うと、静かに立ち上がり、その槍を強く握りしめた。
ひやりとした、慣れ親しんだ鉄の感触が、燃え盛る彼女の心に、わずかな冷静さを取り戻させる。
(父上が見つけられないなら、私が見つけてみせる……)
その瞳に、再び烈しい光が宿る。
(私より強い男を!)
それは、もはや単なる父への反発ではなかった。
自問する。私は、何を求めているのだ?
姉のように、その知性で国を富ませることはできない。
妹のように、その優しさで人の心を癒すこともできない。
私にあるのは、この槍だけ。父から受け継いだ、このあまりに強すぎる武だけだ。
このまま城の中にいては、自分は腐ってしまう。
姉や妹の幸せを素直に喜べない、醜い嫉妬に心を蝕まれ、誇りとしてきたこの槍の腕も、いずれ鈍ってしまうだろう。
この城は、姉と妹にとっては守るべき家であり、帰るべき場所だ。
だが、今の私にとっては、あまりに暖かく、そしてあまりに狭い、ただの鳥籠でしかない。
ならば、行くしかない。
この并州の外には、まだ見ぬ強者がいるはずだ。
父上が「底知れぬ」と評した曹操の下にも、そして、その曹操に敗れたという劉備の下にも、きっと、魂を震わせるほどの強者がいるはずだ。
世界は、広い。
その強者たちと槍を交え、己の力を試したい。
この呂飛燕の武が、ただの親の威光ではないことを、敗者の戯言ではないことを、この槍一本で証明する。
それこそが、今の自分に残された、唯一の道だった。
夜が更け、城が深い眠りに落ちるのを待ち、彼女は筆を取った。
父、そして姉妹への、短い置き手紙。
『少し、風に当たってきます。
心配には及びません。
必ずや、今よりも強くなって、この晋陽に帰ってきます』
それ以上、言葉は続かなかった。
不器用な彼女らしい、短い別れの言葉だった。
旅支度を整える。お忍びの旅だ。
豪華な衣装は脱ぎ捨て、動きやすい商人風の、丈夫な布で作られた服に着替える。
長い黒髪は、無造作に後ろで一つに束ねた。
その手が、ふと止まる。
机の隅に、姉の暁が「いつか使うかもしれないから」と、黙って置いていってくれた、小さな薬包があった。
その隣には、妹の華が「練習で手が荒れるでしょうから」と、はにかみながら渡してくれた、丁寧に作られた頑丈な革の手袋。
姉妹の、何気ない日常の中にある優しさが、鋭い痛みとなって胸に沁みる。
(これが、最後の甘えだ)
彼女はそれを振り払うように、薬包と手袋を荷物の中へと押し込んだ。
夜明け前、東の空がわずかに白み始めた頃。
飛燕は誰にも気づかれぬよう、自室の窓から音もなく抜け出すと、厩舎へと向かった。
愛馬の黒い駿馬は、主のただならぬ気配を察したのか、静かに鼻を鳴らす。
「静かに、黒風。これから、お前と私の、二人だけの旅よ」
彼女は愛馬の首筋を優しく撫でると、鞍に跨った。
晋陽の城門を、一人静かに抜ける。
振り返った城は、まだ朝靄の中に、巨大な影として眠っていた。
父上のこと、姉、妹のこと。様々な想いが込み上げる。
だが、彼女はもう、振り返らなかった。
この門をくぐった瞬間から、自分はもはや「呂布の娘」ではない。
ただ一人の、名もなき武芸者、呂飛燕なのだと、自らに固く誓った。
(待っていなさい、天下の強者たち……!)
(この呂飛燕が、あんたたちを探しに行くんだから!)
一抹の寂しさを振り払うかのように、彼女は馬の腹を強く蹴った。
黒い駿馬は、主の決意に応えるように高く嘶くと、未知なる世界が広がる北の荒野へと、その蹄を力強く踏み出したのだった。
籠の中の燕は、ついに自らの意志で、嵐の中へと飛び立った。