第四十四ノ二話:父と娘の衝突
第四十四ノ二話:父と娘の衝突
秋の気配が色濃くなり始めた頃、晋陽の空気は透き通るように澄み、朝夕の風は肌に冷たさを帯びていた。
その澄んだ空気を裂くように、城内の訓練場から鋭い槍風の音が響き渡ってくる。
城壁の上に立つ呂布は、その音の主――次女・飛燕の姿を、腕を組みながらじっと見下ろしていた。
夕陽が長く伸びた影を訓練場に落とし、その中で飛燕は黙々と槍を振るっている。
一撃ごとに踏み込みは深く、槍の切っ先が空気を裂き、突き抜けた風が耳に痛いほどだった。
(……やはり、俺に似ておる)
槍筋の鋭さ、動きの速さ、そして全身から立ち上る熱――それらは若き日の自分を思い出させた。
だが、その瞳の奥に宿る光は、純粋な向上心ではなかった。
それは、何かを振り払うために必死で槍を振るう者の光――焦りにも似た、悲壮な輝きだった。
(あいつ……何を、そこまで急いでいる)
姉の暁は、徐庶と共に国の政を支え、妹の華は西涼との縁を結び、日に日に輝きを増している。
一方で飛燕は、ただひたすら槍を振るい続ける日々――孤独を感じていることなど、父として察していた。
そして、武人としての目は、もう一つの懸念を見抜いていた。
(このままでは……あいつの槍は、戦うためではなく、壊すためだけの刃になってしまう)
才ある者には、それを受け止め、導く存在が必要だ。
彼女の槍を真に輝かせる相手――それは、戦場における「好敵手」であり、人生における「伴侶」かもしれない。
夕刻、稽古を終え、汗に濡れた飛燕が槍を肩にかけて自室へ戻ろうとするところを、呂布は待ち構えていた。
「飛燕」
「……父上。何かご用でしょうか」
振り返った声は硬く、視線は一瞬だけこちらを見て、すぐ逸らされた。
呂布は深く息を吸い、まずは武人としての礼を尽くすことにした。
「見事な槍だった」
その言葉に、飛燕のまぶたがわずかに震える。
「だが……お前の槍には迷いがある」
そして一歩、踏み込むように言葉を続けた。
「飛燕よ。お前のその槍を受け止め、共に高みを目指せるような、良き伴侶を探してやろう」
それは、父としての愛情と、師としての敬意を込めたつもりの提案だった。
だが――
「……伴侶、ですって?」
飛燕の声には、信じられないものを聞いたという驚きがあり、それは瞬く間に、灼けるような怒りへと変わった。
「父上まで、私を……姉様や妹と同じように、家のための駒にするのですか!?」
「なっ……違う! 俺は――」
「どうせ父上がお選びになる方など、私より弱い、つまらない男に決まっています!」
声が震えた。
「父上だけは……この槍が、私の魂そのものだと分かってくださっていると思っておりました! なのに……!」
その叫びは、刃のように鋭く、呂布の胸を貫いた。
彼女にとってそれは単なる縁談の話ではなかった。
もっと深い――「お前は一人では未完成だ」という、存在そのものの否定に聞こえたのだ。
「もう……結構です!」
飛燕は、振り返ることなく駆け去った。
その瞳には涙が光り、髪が夕闇を切り裂くように揺れた。
呂布は、ただ立ち尽くしていた。
良かれと思った言葉が、なぜ娘をこれほどまでに傷つけたのか――。
耳に残る「父上だけは」という言葉。
それは、悲痛なまでの信頼と、それを裏切られた絶望を孕んでいた。
(……俺は、あいつの孤独を和らげるどころか、さらに深く抉ってしまったのか)
冷たい夜風が、訓練場に吹き込む。
槍を振るう娘の背と、それを見守る父――その距離は、今や言葉よりも遠かった。
この夜の衝突は、若き燕を籠の外へと向かわせる最後の引き金となる。
そして、その外に待つのは、未知なる嵐――父も娘も、その風がすでに頬を撫でていることに、まだ気づいていなかった。