幕間:兵士たちの噂話
幕間:兵士たちの噂話
官渡の地で二人の英雄が睨み合っていた、同じ年の夏。晋陽、城内の練兵場。
じりじりと照りつける太陽が、乾いた土の匂いをむせ返らせる。北の都は、奇妙なほどの静けさと、来るべき秋の収穫を前にした、穏やかな活気に満ちていた。
練兵場の片隅、的当て用の藁人形が並ぶ日陰で、数人の兵士が汗を拭いながら、しばしの休息を取っていた。一日の厳しい訓練で酷使した肉体が、心地よい気だるさを訴えている。水筒の生ぬるい水を喉に流し込むと、自然と口から世間話がこぼれ始めた。
「…それにしても、良い陽気になったもんだ」
一人の古参兵が、土壁に背を預けながら、眩しそうに空を見上げた。彼は、丁原が并州刺史であった頃からの古参で、この并州の、血と泥にまみれた歴史を、その身に刻んできた男だった。
「半年前までは、いつ北から蛮族が、東から袁紹軍がなだれ込んでくるかと、夜もろくに眠れやしなかった。それが、どうだ。今じゃ、こうして昼間からのんびり日向ぼっこができる。…ありがたい話じゃねえか」
その言葉に、血気盛んな若い兵士が頷く。
「へえ、じいさん。そりゃ、やっぱ、殿の武威のおかげですかい?」
「殿の武も、もちろんそうだ」
老兵は、懐かしむように目を細めた。あの赤い鬼神が、たった一騎で黒狼族の陣を蹂躙した光景は、今も鮮明にまぶたの裏に焼き付いている。
「だがな、俺たちのような年寄りに言わせりゃ、本当にありがたいのは、むしろ、暁様のお婿様の方だ。あの徐庶様が来てから、俺たちの給金が、一度も滞ったことがねえ。それどころか、質も量も、丁原様の頃より良くなった。聞いた話じゃ、無駄な関所を廃止したり、商人たちに新しい市を開かせたりして、国の蔵が、この一年で見違えるほど潤ったそうだ」
老兵は、ごつごつとした自分の手のひらを見つめた。
「俺にも、故郷にゃ女房と、孫がいる。あいつらが、この冬も腹を空かせずに済む。戦場で槍を振るう俺たちにとっちゃ、それ以上にありがたいことはねえんだ。暁様は、まこと、素晴らしいお方を見つけられたもんよ」
その言葉に、若い兵士が興奮気味に続く。
「西涼の若君も、そりゃあ凄まじい武勇だそうだぜ! 俺の隊の隊長が、許都からの帰還兵に聞いたんだ。あの錦馬超様の槍捌きは、我が軍の張遼様に勝るとも劣らない、と。そんなお方が、華様の旦那様になるんだ。我らの西側に、金城鉄壁の、もう一つの并州軍が生まれたようなもんだ!」
「暁様には知恵者の徐庶様」「華様には勇者の馬超様」。二人の姫君の縁談は、まさに并州の宝だと、兵士たちは手放しで賞賛した。
だが、その和やかな空気に、城門を守る衛兵の男が、少しだけ声を潜めて水を差した。
「…まあまあ、二人とも、その辺にしときなよ。…お前ら、忘れてねえか? 我らには、もう一人、姫君がおられるだろうが」
その言葉に、老兵と若者の顔から、笑みが消えた。
三人の脳裏に、あの黒髪の、誇り高き姫君の姿が浮かぶ。
次女、飛燕。
「俺は、飛燕様が一番好きだぜ」
若い兵士が、先程とは打って変わって、どこか照れくさそうに呟いた。
「あの、誰にも媚びねえ、勝気なところ。そして、あの槍の腕は、まさに殿の生き写しだ。初めて訓練場でそのお姿を見た時ぁ、正直、腰が抜けるかと思ったぜ…」
「馬鹿め、憧れるだけなら良い。だが、考えてもみろ。あの方の婿になる男のことを」
老兵が、やれやれと首を振る。
「一体、どんな男なら、あの姫様の隣に立てるというのだ? 暁様や華様のように、お淑やかであれば、まだやりようもあるだろうが…」
「下手な男を連れてきたら、祝言の前に、槍で串刺しにされちまうぞ」
衛兵の男の冗談に、三人の間で、乾いた笑いが起きた。
だが、その笑いの奥には、誰もが共有する、真剣な認識があった。
あの姫君に釣り合う男など、この天下広しといえども、そう簡単に見つかるものではない。
そして、そのことが、あの気高き姫君を、どれほど孤独にさせていることか。
「…近頃、姫様は、めっきり口数も少なくなられてな」
衛兵の男が、憂いを帯びた目で、城の方角を見上げた。
「訓練場で、鬼気迫る形相で槍を振るっておられるお姿を、時々お見かけする。まるで、何かと戦っておられるかのようだ。…俺には、それが、とても痛々しく見える」
老兵が、それに付け加えるように、声を潜めて言った。
「それだけじゃねえ。最近、姫様は、中原から来た行商人や、古参の兵士たちを捕まえては、熱心に何かを尋ねておられるそうだ。『并州の外には、どんな強者がいるのか』と…。まるで、この城の外に、何かを探しておられるかのように…な」
その言葉に、誰も何も言い返せなかった。
華やかな二組の縁談の影で、一人、自らの武と孤独に苛まれる、もう一人の姫君。
その時、遠くの城壁の上で、一人、訓練場を見下ろす、巨大な影があることに、三人は気づいた。
主君、呂布。
彼もまた、自分たちと同じように、あの誇り高き娘の姿を、憂いを帯びた目で見つめている。
三人の兵士は、言葉もなく立ち上がると、再び、それぞれの持ち場へと戻っていった。
并州の安泰を喜びながらも、その胸には、自らが仕える主君一家が抱える、一つの大きな悩みが、確かに共有されていた。




