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第四十四話:籠の中の燕

第四十四話:籠の中の燕

官渡の地で、袁紹と曹操が睨み合う緊張の夏――その北方に位置する并州、晋陽は、奇跡のように平和を享受していた。

城下の市場では、真新しい織物や香辛料が並び、子どもたちが駆け回る。城内はさらに華やかで、二人の姫君の幸せな話題が、日々の光のように人々の心を照らしていた。


三女・華のもとには、西涼から定期的に、婿となる馬超から贈り物が届く。

極彩色の絹布、砂漠を越えてきた珍しい香辛料、そして武骨な筆致で綴られた短い恋文――。

箱を開けるたび、彼女は頬を桜色に染め、侍女や姉たちに嬉しそうに見せる。その笑顔は、花がほころぶ瞬間のように瑞々しい。嫁入りの日を思い描くたび、少女から女性へと移り変わるその姿に、家臣たちもまた目を細めた。


長姉の暁と、その夫・徐庶もまた、人々の羨望を集めていた。

書庫の奥では、二人が机を挟み、国の未来について真剣に議論する光景が日常となっている。暁の鋭い洞察と徐庶の深い学識が交わることで、并州の内政は着実に進化していた。

二人は単なる夫婦ではなく、この国の左右の車輪であり、互いに欠かすことのできぬ伴侶であった。


――しかし、光が強くなれば、その影もまた濃くなる。


その日、城の訓練場には、次女・飛燕の姿があった。

夏の日差しを浴び、汗が額から顎へと滴り落ちる。彼女の握る槍は、父から叩き込まれた武芸によって研ぎ澄まされ、突きは稲妻のように速く、薙ぎは暴風のように重い。

槍が空気を裂く音は、もはや鋭い風切りではなく、獣の咆哮にも似ていた。


だが、その瞳の奥には、勝利の充足感ではなく、渇いた光が宿っていた。


(もっとだ……もっと強く……)


突きを重ねるたび、脳裏には姉や妹の姿がよぎる。

華は西涼との絆を結ぶ「架け橋」となった。

暁は徐庶と共に、国の「頭脳」となった。

二人はそれぞれの道で、父と国にとって欠かせぬ存在となっている。


(それに比べて、私は……?)


自分の武芸は、父から受け継いだ唯一無二の誇りだ。

だが、この平和な并州で、この槍を振るう場がどこにあるのか。

戦が来るその日まで、ただ刃を錆びさせ、己を閉じ込めて待つだけでいいのか――その答えは、どれだけ稽古を重ねても見つからなかった。


やがて稽古が終わり、槍を担いで自室へ向かう。

廊下を通ると、遠くの書庫から姉と義兄の笑い混じりの議論が聞こえた。

食堂を横切れば、妹が侍女たちと楽しげに話す声が響く。

その一つひとつが、自分だけが輪の外にいるという感覚を、容赦なく突きつけてくる。


「私だけが……この城で取り残されている」


誰に聞かせるでもない呟きが、夕暮れの赤に染まった空気に吸い込まれる。


部屋に戻っても、胸のもやは晴れなかった。

結局、夜更けになっても眠れず、彼女は再び訓練場へ向かった。

月明かりの下、槍を振るう影は、昼よりもなお鋭く、そして孤独だった。


突く。薙ぐ。踏み込む。

そのたびに、槍先から火花のような閃光が散るような錯覚が走る。

しかし、いくら振っても、手応えのある敵は現れない。

平和な城内には、彼女が命を賭けて挑むべき「嵐」が存在しなかった。


(……いつか、この籠を破らねば)


息を荒げ、夜空を仰いだ飛燕の瞳に、危うい光が宿っていた。

それは単なる鍛錬の向上心ではなく、己を試す場を求める、無意識の渇望だった。

強くなればなるほど、戦場という空を飛びたい衝動が抑えきれなくなる。


籠の中の若き燕は、己の羽が広げられる日を夢見ながらも、その日が平穏を壊す嵐と共に訪れることを、どこかで悟っていた。

そして――その嵐は、確実にこの地へ近づきつつあった。

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