幕間:二人の天才
幕間:二人の天才
官渡、曹操軍本陣。
夜のしじまに、秋の虫の声だけが、やけに高く響いていた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った本陣。だが、その静けさは、安らかな眠りから来るものではない。遥か北、黄河を挟んで対峙する、袁紹軍七十万(と号する)の威容がもたらす、息の詰まるような緊張感に満ちていた。
その、張り詰めた空気の中心にある、曹操の幕舎。その一室で、荀彧は、并州から届いたばかりの密書を、灯火にかざして静かに読み返していた。
彼の顔には、常と変わらぬ、鉄仮面のような冷静さが張り付いている。だが、その指先が、かすかに震えているのを、彼自身は自覚していた。
「―――并州、動かず。呂布、官渡の戦を『静観』する、と」
その報せは、荀彧にとって、この膠着した戦況における、数少ない吉報の一つであった。
いつ、こちらの背後を突いてくるか分からない、あの予測不能な武力集団が、少なくとも今は、動かない。
これで、心置きなく、目の前の袁紹との戦に集中できる。
彼は、まず安堵の息をついた。
「…ふふ、何を難しい顔をしておられるのですか、文若殿。吉報に、眉をひそめる癖は、感心しませぬな」
背後から、酒の匂いをまとわせた、どこか飄々とした声がした。
振り返るまでもない。この本陣で、荀彧の思考の深淵に、土足で踏み込んでくることを許された男は、一人しかいない。
郭嘉、字は奉孝。
曹操がその才能に惚れ込み、軍師として破格の待遇で迎えた稀代の謀士。
「奉孝か。貴殿こそ、このような時に酒とは、感心できんな」
荀彧が、静かに、しかし棘のある言葉で返す。
「はっはっは。酒は、思考を巡らせるための潤滑油にございますよ」
郭嘉は、悪びれもせずに笑うと、荀彧の手にある密書を、ひょいと覗き込んだ。
「ほう…并州の鬼神は、高みの見物を決め込んだ、と。文若殿、これを、ただの吉報と捉えておられるのでしたら、それはあまりに楽観的です。むしろ、事態は、より厄介になったと見るべきでしょうな」
「どういうことだ?」
荀彧が、怪訝な顔で問い返す。
「考えてもみてください」
郭嘉は、まるで子供に言い聞かせるように、指を一本立てた。
「もし、あの呂布が、張遼あたりが主張したであろう『袁紹と組んで我らを討つ』という、短絡的な道を選んでいたなら、話は簡単でした。我らは、二つの敵を同時に相手にするという窮地に陥りますが、敵の狙いが明確である分、まだ対処のしようがある」
彼は、さらに続けた。
「あるいは、彼が乱世の常道に従い、『漁夫の利』を狙って、我らと袁紹が疲れ果てたところを叩こうと考えているだけなら、それもまた、読みやすい。我らは、その動きを警戒しつつ、袁紹との戦を進めれば良いだけのこと」
「だが、あの男は、そのどちらも選ばなかった」
郭嘉の瞳が、初めて、鋭い光を宿した。
「なぜか? 答えは一つ。あの男は、もはや、我らや袁紹が争うこの盤面を、同じ高さから見てはいないのです。虎と狼が、眼下で愚かな争いを繰り広げているのを、ただ高みから見下ろし、両者が共に地に伏した時、満を持して天から舞い降り、その喉笛を掻き切ろうとしているのですよ。…まるで、全てを見通す、狡猾な蛟のように」
その、あまりにも不吉な比喩に、荀彧はしばし押し黙った。
だが、彼は、静かに首を振った。
「いや、奉孝。貴殿の読みは、少しばかり穿ちすぎているやもしれん」
荀彧は、立ち上がると、別の角度から、呂布という男を分析し始めた。
「呂布将軍は、確かに危険な男だ。だが、彼の根底にあるのは、驚くほどに純粋な『義』の心。酸棗で諸侯の私欲に憤り、滎陽で我らを救った、あの時のように。彼が動かぬのは、漁夫の利を狙うためではない。袁紹も、そして我らも、彼の目には『漢室を思う忠臣ではない』と映っているからだ。無益な争いに与し、民を苦しめることを、彼の『義』が許さぬ。ただ、それだけのことよ」
荀彧は、呂布を「危険だが、理の通じる君主」として評価していた。
その行動原理は、理解できる。だからこそ、対処も可能だと。
だが、郭嘉は、その荀彧の「正論」を、鼻で笑った。
「その『義』こそが、最も厄介なのです、文若殿」
郭嘉の声が、氷のように冷たくなる。
「理で動く者は、理で縛れる。欲で動く者は、欲で操れる。だが、己が信じる『義』だけで動く者は、我らの常識も、計算も、全て踏み越えてくる。今の彼は、陳宮という老獪な『鞘』と、許都で見せた、あの徐庶とかいう若者の『砥石』を得て、かつての猛獣から、いつ、どこに牙を剥くか予測不能な『鬼神』へと変貌した。袁紹よりも、遥かに危険な存在ですぞ」
二人の天才は、呂布という男を、全く違う角度から分析していた。
王道を往く荀彧は、呂布を「成長した君主」として、その行動原理を理解しようとし。
奇道を好む郭嘉は、呂布を「予測不能な天災」として、その危険性を最大限に見積もっていた。
だが、その結論は、恐ろしいまでに一致していた。
―――もはや、あの男は、ただの猛将ではない、と。
「…いずれにせよ」
荀彧が、重い口を開いた。
「今は、目の前の袁紹を滅ぼすことこそが、我らの最優先事項。并州の件は、その後だ」
「ええ。ですが、文若殿」
郭嘉は、不敵な笑みを浮かべた。
「袁紹を滅ぼした後、我らが真っ先に向き合うべきは、北の并州。その時までに、あの鬼神をどう御するか、今から手を打っておかねばなりませぬな。陳宮は無理でも、あの聡明な娘婿、徐庶。彼ならば、あるいは…」
彼の瞳が、妖しく光る。
「あの男が最も大切にする『家族』という名の鎖。そこに、我らが付け入る隙は、ないものか…」
荀彧は、そのあまりに危険な提案に、眉をひそめたが、反論はしなかった。
二人の天才の思考は、すでに、官渡の戦いの、さらにその先を見据えていた。
彼らは、まだ見ぬ次なる大戦の勝利のために、静かに、そして冷徹に、盤上の駒を動かし始めていたのだ。
并州の平和な日常の裏側で、天下最高の知恵者たちは、その楽土をいかにして切り崩すかという、恐るべき謀略を、すでに練り始めていた。
そのことに、まだ、北の者たちは、誰も気づいてはいなかった。




