第四十三ノ二話:許都の義
第四十三ノ二話:許都の義
官渡に戦端が開かれたという報せが天下を駆け巡った、その夜。
許都は、北へ向かう兵馬の喧騒と、後に残る者たちの不安が入り混じった、奇妙な熱気に包まれていた。だが、曹操が関羽に与えた壮麗な屋敷だけは、その熱気から切り離されたかのように、冷たい静寂に満ちていた。
部屋は、主の心を慰撫せんとするかのように豪華絢爛であった。美酒佳肴が並び、曹操から贈られた絶世の美女たちが傍らに侍っている。しかし、関羽はその全てに目もくれず、一人、窓辺に立ち、故郷で見たものと同じはずの月を、静かに見上げていた。その手には、愛用の青龍偃月刀が、まるで魂の半身のように、片時も離さず握られている。この豪華な屋敷は、彼にとって心地よい寝床ではない。忠義を試される「金色の檻」でしかなかった。
脳裏に、離散した義兄弟たちの顔が浮かぶ。
(兄者…今、いずこに…)
小沛落城の、あの悪夢のような混乱の中、兄・劉備は袁紹の元へ落ち延びたと聞く。旧主の仇である男に頭を下げるなど、兄者がどれほどの屈辱を耐え忍んでおられることか。そして、血路を開き闇に消えた三弟・張飛の安否もまた知れぬ。この胸を締め付ける不安は、夜ごと彼を苛んでいた。兄の二人の夫人を守り抜き、いつか必ず兄の元へお返しする。その、己に課した絶対の誓いだけが、彼の心をかろうじて繋ぎ止めていた。
(曹操公…)
その一方で、曹操の厚遇もまた、彼の心を重くしていた。あの男は、自分を捕虜としてではなく、賓客として遇してくれる。日々の酒宴、金銀財宝、そして何より、この青龍偃月刀を振るう自分の武を、心から評価してくれる。その厚遇は、武人として素直に有り難い。だが、その裏にある「自分を家臣としたい」という強烈な野心も痛いほど感じている。その恩義が、日に日に重い枷となって、彼の心を縛り付けていた。
その時、背後から無骨な、しかしどこか人の良い声がした。
「関羽殿、また一人で月見酒ですかな。某も、お相伴にあずかりたい」
振り返ると、そこに立っていたのは、酒甕を片手にした虎のような巨漢、許褚であった。曹操の懐刀であるこの男は、関羽の武勇に心酔しており、二人の間には敵味方を超えた、武人としての奇妙な友情が芽生え始めていた。
「許褚殿か。構わぬが、今宵は戦の話は抜きに願いたい」
「はっはっは、分かっておりますとも」
許褚は豪快に笑うと、関羽の隣にどかりと腰を下ろした。彼は、戦の噂話として何気なく語り始めた。
「そういえば、北の并州ですが、全く動きがありませぬな。官渡の戦いを、ただ静観する構えとのこと。丞相も、『あの呂布が今のところ動かぬとは、一体何を考えているのか』と、少し気味悪がっておられましたな」
その報告に、関羽は初めて眉を動かした。
(呂布殿…あの男が、動かぬ、だと…?)
虎牢関で見た、あの猛々しい飛将。曹操と袁紹が争うこの好機に、彼が動かないはずがない。そう思っていた。乱世の常道に従うならば、どちらかの背後を突き、漁夫の利を得ようとするはずだ。
だが、動かぬ。
その事実に、関羽はまず、かすかな安堵を覚えた。もし呂布が曹操に与すれば、曹操の力はさらに増し、自分が兄を探し出し再起を果たす道は、より困難になるからだ。
しかし、その安堵は、すぐに深い疑念と畏怖へと変わっていった。
(一体、何を考えているのだ、あの男は…。ただの猛将ではないと、酸棗で会った時から感じてはいたが…まさか、この天下分け目の戦すら、己の盤上の駒の一つとしか見ておらぬというのか…? 虎と狼が争うのを、ただ高みから見下ろしているとでも…?もしそうだとすれば、あの男の器、我らが測れるほど浅くはないぞ…)
関羽は、呂布という存在を、もはや単なる好敵手ではなく、曹操や袁紹とも違う、全く異質の、計り知れない「第三の勢力」として、改めて認識せざるを得なかった。
許褚が去った後、関羽は再び一人、月を見上げた。
許都の月は、どこか冷たく、よそよそしく見える。
彼は、青龍偃月刀の冷たい柄を、強く、強く握りしめた。
(曹操公の恩義には、いずれ必ず報いよう。だが、我が魂は、ただ一人、玄徳兄者の下にこそある)
(そして、呂布殿…貴殿は、一体どこへ向かわれるのか。貴殿の真意が何であれ、次にまみえる時、我らはもはや友ではないやもしれぬ。**だが、それでも良い。**その時まで、この関雲長、己の『義』、決して見失いはせぬ)
金色の檻の中、義の武人は、自らの魂が錆びついていないことを確かめるかのように、ただ静かに、そして鋭く、己の刃を研ぎ澄ます。
彼の本当の戦いは、まだ始まってすらいなかった。