幕間:陥陣営
幕間:陥陣営
官渡の地で、二人の英雄が天下の覇権を賭けて睨み合っていた、同じ夏。
并州北部、雁門関近郊。
じりじりと照りつける太陽が、乾いた大地から陽炎を立ち上らせていた。
遥か南から吹く熱風は、遠い戦場の緊張の匂いを、かすかに運んでくるかのようだった。
だが、高順が築き上げた、この新しい砦の中だけは、別世界のように、静かで、そして秩序だった空気に満ちていた。
彼は、新設された砦の最も高い物見櫓の上で、腕を組み、ただ黙って、遥か東の冀州の方角を見つめていた。その視線は、岩のように、微動だにしない。
彼の周りでは、彼が率いる部隊の兵士たちが、一糸乱れぬ動きで、日々の務めに励んでいた。
城壁の補強を行う工兵部隊。その槌音は、まるで一つの生き物の心臓の鼓動のように、規則正しく響き渡る。
武具の手入れをする兵士たち。油を塗り、革を磨くその手つきに、一切の無駄も、私語もない。
そして、練兵場で、来る日も来る日も繰り返される、盾と槍の訓練。
ただ、与えられた任務を完璧にこなすという、鋼のような意志だけが、声なくして、この砦全体を支配していた。
訓練の合間、一日のうちで唯一、兵士たちの間に緩やかな空気が流れる、昼餉の刻。
一人の、まだ年若い兵士が、意を決したように、物見櫓の下に立つ高順の元へ進み出た。その若者の顔には、尊敬と、そしてそれを上回る、鬱屈した何かが浮かんでいる。
「高順将軍。一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
高順は、東の空から視線を外すことなく、ただ、顎をわずかに引くことで、言葉の続きを促した。
若い兵士は、一度ごくりと唾を飲むと、胸の内の想いを、堰を切ったように吐き出した。
「なぜ、我らは、ここに留まり続けるのですか。南では、天下分け目の戦が起きております。張遼将軍の騎馬隊は、常に領内を駆け巡り、いつか来るべき戦に備えていると聞きます。我らとて、并州の武を担う者。殿と共に、中原で華々しく戦いたいと願うのは、間違っておりますでしょうか。このままでは、我らの槍は、錆びついてしまいます…!」
その問いには、最前線で戦えないことへの焦りと、自分たちの役割への、かすかな疑問が滲んでいた。それは、この砦にいる、多くの若い兵士たちが、口には出さずとも心の内に抱えている、共通の想いであった。
高順は、ゆっくりと、その巨躯を翻した。
そして、初めて、その若者の目を、真っ直ぐに見つめた。
彼の瞳は、凪いだ湖面のように静かだったが、その奥底には、千の言葉よりも雄弁な、深い思慮の色が宿っていた。
彼は、何も言わず、ただ、若者を伴って、砦の外れにある、小さな丘の上へと登り始めた。
そこからは、砦に守られた、いくつかの村々が、穏やかな夏の陽光の中に、まるで一枚の絵のように浮かんで見えた。
黄金色に色づき始めた畑を、農夫が黙々と耕している。
井戸端では、女たちが、楽しげに言葉を交わしながら、水を汲んでいる。
村の入り口にある小さな学堂からは、子供たちの、朗々とした声が、風に乗って微かに聞こえてくる。
そこにあるのは、乱世のどこを探しても、見つけることのできない、奇跡のような、ささやかな日常の光景であった。
高順は、その光景を、ただ黙って指さした。
そして、初めて、その重い口を開いた。
「…あれが、我らの戦場だ」
若い兵士が、戸惑いの表情を浮かべる。
高順は、続けた。その声は、乾いた大地に染み込む水のように、静かで、しかし、聞く者の魂を揺さぶる重みを持っていた。
「殿は、天を翔ける矛。その武は、天がこの乱世を正すために遣わした、裁きの雷よ」
「張遼殿は、その矛と共に敵を貫く、もう一つの刃。疾風の如く敵陣を切り裂く、鋭き牙だ」
「そして、陳宮殿と徐庶殿は、その矛と刃が進むべき道を照らす、光だ。彼らの知恵なくして、我らに勝利はない」
「…では、我らは」
若者が、かすれた声で問う。
「我らは、盾だ」
高順の言葉には、揺るぎない、絶対的な誇りがこもっていた。
「矛が、憂いなく、その切っ先を敵の心臓に向けることができるのは、なぜか。刃が、ためらいなく、敵の喉笛を掻き切ることができるのは、なぜか」
「それは、自らの背後が、絶対に安全だと、信じているからだ」
彼は、自らが築き上げた、眼下の砦を見下ろした。
「我らの役目は、華々しく勝利することではない。負けないことだ。殿や、張遼殿や、軍師殿たちが、安心して天下を相手に戦えるよう、この并州という『家』を、ただの一度も脅かさせぬこと」
「この、民のささやかな暮らしを、この命を賭して守り抜くこと」
「それこそが、我らの誇りであり、殿が最も信頼する、最大の武功なのだ」
若い兵士は、言葉を失い、ただ、目の前に広がる平和な村の風景と、それを守るために黙々と砦を築き、訓練に励む仲間たちの姿を、改めて見つめた。
そして、自らが担う役割の、本当の重さと、その尊さに気づき、涙で潤む目で、その場に膝をつき、深く、深く、頭を下げた。
「…申し訳、ございませんでした…! 某の、考えが、浅はかでございました…!」
高順は、その若い兵士の肩を、無骨な手で一度だけ、力強く叩いた。
彼は、再び、東の空を見据える。
その瞳には、華々しい戦場への憧憬など微塵もない。
ただ、この并州という国と、そこに生きる民、そして、自分が信じる主君の背中を、生涯をかけて守り抜くという、絶対的な「盾」としての、静かで、しかし何よりも固い覚悟の光が、燃えていた。
矛が輝くためには、それを受け止める、揺るぎない盾が必要なのだ。
その声なき忠義の形を、彼は、自らの生き様そのもので、示し続けていた。