第四十三話:官渡の風
第四十三話:官渡の風
劉備敗走の報せが并州に届いてから、数ヶ月が過ぎた。
冬の間に中原から届いたその凶報は、并州の地に、見えざる影を落としていた。晋陽の城下は、表面上は穏やかであったが、その空気はどこか張り詰め、誰もが南から吹く風の匂いに、敏感になっていた。
呂布が築き上げた束の間の平和が、脆いガラス細工の上にあることを、人々は本能的に感じ取っていたのだ。
そして、その予感は現実のものとなる。
春の雪解けを待っていたかのように、凍てつく泥にまみれた伝令が、晋陽の静寂を破る次なる凶報をもたらした。
「申し上げます! 袁紹、公孫瓚を滅ぼした全軍を率い、黎陽に大軍を集結! 『兵数七十万』と号し、許都を目指して南下を開始いたしました!」
火急の招集を受け、軍議の間に集った将たちの間に、激震が走る。
「対する曹操も、許都の全軍を率いて官渡へ出陣! その数、およそ七万! 天下分け目の戦が、始まろうとしております!」
「七十万だと…!?」
「十倍の兵力差…これでは勝負にならん!」
将たちの動揺が、熱気となって広間を満たす。その中で、張遼が玉座に進み出て、その瞳に戦の炎を宿らせて叫んだ。
「殿! これぞ天が我らに与えた好機! 袁紹は常山での恨みがある不倶戴天の敵! 曹操が気に食わぬ男であるのは百も承知ですが、今こそ奴と一時的に手を結び、共通の敵である袁紹の背後を突けば、河北の双璧亡き袁紹軍など赤子の手をひねるが如し! あの男の首を獲ることも、夢ではありませぬぞ!」
若き猛将の言葉は、他の将たちの心を瞬く間に燃え上がらせた。「張遼将軍の言う通りだ!」「今こそ、常山の雪辱を!」と、即時参戦を望む声が、嵐のように巻き起こる。
だが、その熱狂の中心で、玉座に座す呂布は、微動だにしなかった。
彼は、その喧騒を、まるで対岸の火事でも見るかのように、静かに見据えている。やがて、彼はその視線を、傍らに控える二人の軍師へと向けた。
「陳宮、元直。両名の見立てを聞こう」
その声は、将たちの熱狂をいともたやすく鎮めるほどの、絶対的な静けさを湛えていた。
まず、陳宮が一歩前に進み出た。
「恐れながら。袁紹が号する『七十万』は、民を威圧するための虚報にございましょう。間者の報告と兵站の限界から鑑みるに、実働兵力は多くとも十五万程度。それでもなお、曹操軍の倍以上ではありますが」
陳宮は冷静に数字のからくりを暴くと、地図を指し示しながら続けた。
「戦は、兵の数だけで決するものではございません。袁紹軍は数は多いが、内情は一枚岩ではない。軍師の沮授と郭図は反りが合わず、将もまた手柄を競い合う烏合の衆。加えて、補給線が長い。対する曹操は、兵こそ少ないが、その全てが百戦錬磨の精鋭。何より、曹操自身の決断力と、荀彧・郭嘉といった軍師の質が袁紹を上回っております」
師の言葉を引き継ぐように、徐庶もまた、静かに口を開いた。
「兵站の観点から申し上げます。たとえ十五万の軍勢でも、その消費する兵糧は膨大です。曹操が官渡の守りを固め、戦を長期化させれば、袁紹軍は戦う前に飢え、内から崩れる可能性がございます。短期決戦に持ち込みたい袁紹と、持久戦に持ち込みたい曹操。戦の主導権は、地の利を持つ曹操にありと見ます」
師弟の見事な連携による、冷静にして的確な分析。それは、熱した鉄に注がれた冷水のように、将たちの頭を冷やさせた。
張遼ですら、思わず唸り、自らの短慮を恥じるように押し黙る。
広間が、再び静寂に包まれた。
全ての視線が、玉座の主へと注がれる。
呂布は、ゆっくりと立ち上がった。その巨躯が動いただけで、広間の空気が、彼の覇気によって支配される。
「陳宮、元直、見事な分析だ。そして、張遼、お前の気持ちも分かる。だが…」
彼は、居並ぶ将兵の顔を一人一人見渡し、そして、雷鳴のように、しかし静かに、その決断を告げた。
「―――我らは、どちらにも与せぬ」
その言葉に、将たちが息を呑む。
呂布は、続けた。その脳裏には、かつて酸棗で見た、諸侯たちの欲望に満ちた醜い姿が浮かんでいた。
「奴らは、漢室を思う忠臣ではない。ただ己の野心を喰らい合う、飢えた獣だ。どちらが勝とうと、民が苦しむことに変わりはない」
そして、彼は、君主としての絶対的な方針を示す。その瞳は、もはや目の前の戦場ではなく、その先の、并州の未来を見据えていた。
「我らが動くのは、奴らが互いに疲れ果て、どちらが真の逆賊であるか、その本性が天下に晒された後だ。それまでは、この并州の守りを固め、力を蓄える。民の暮らしを守ることこそ、今の我らの戦ぞ」
その言葉に、反論できる者は誰一人としていなかった。
それは、武人としての本能を完全に理性で抑え込み、国と民の安寧を第一に考えた、君主の決断であったからだ。
呂布は、窓の外、遥か南の空を睨みつけた。その口元に、全てを見通す絶対者の、不敵な笑みが浮かぶ。
「今はただ、高みの見物と洒落込もうではないか。虎と狼、どちらが喰い殺されようと、我らの知ったことではない。最後に残った、満身創痍の獣の喉笛を掻き切るのは、この俺だ」
その圧倒的な器の大きさと、揺るぎない覚悟。
将兵たちは、もはや動揺などしていなかった。ただ、自らが仕える主君の、その計り知れないほどの威光の前に、深く、深く頭を垂れ、改めて絶対の忠誠を誓うのであった。
中原に吹き荒れる戦乱の嵐。
だが、北の并州は、飛将の如き君主の下、来るべき「その時」のために、静かに、そして鋭く、その牙を研ぎ澄まし始めた。