幕間:泥中の玉
幕間:泥中の玉
曹操に徐州を追われ、袁紹の元へ身を寄せてから、初めての春が来た。
河北、鄴の城。
袁紹の広大な屋敷の一角。劉備は、与えられた客室の窓から、華やかな春の景色を、どこか色褪せた思いで見つめていた。
(旧主の仇である男に頭を下げるなど、断腸の思いであった。だが、曹操という、さらに巨大な敵を討ち、漢室を再興するためには、今は、この屈辱に耐えるしかない…)
数ヶ月前の、あの悪夢のような光景が、今もまぶたの裏に焼き付いて離れない。
徐州、小沛の城。曹操の、怒涛の如き大軍。完全に、あの男の掌の上で踊らされていた。
兵糧は尽き、矢も尽き、兵たちの顔には、絶望の色が浮かび始めた。
「兄者、もはやこれまで…! せめて、兄者だけでも、ここから落ち延びてくだされ!」
血まみれの張飛が、そう叫んだ。
「そして、いつか、必ずや雲長の兄貴を…!」
だが、言葉は続かなかった。下邳で、私の家族を守る関羽が、すでに曹操の軍門に降ったとの報せは、我らの心を折るのに、十分すぎる一撃だった。
こうして、私は、再起を誓って北へ落ち延び、翼徳は、行方も知れず、そして雲長は、敵の手に…。
我ら三兄弟は、桃園の誓い以来、初めて、無残に散り散りとなったのだ。
「玄徳殿、何を思い悩んでおられる」
背後から、河北の覇者の、鷹揚な声がした。袁紹であった。
劉備は、ゆっくりと振り返ると、人の良い、気の弱い食客の笑みを、その顔に貼り付けた。
「ははは…袁紹殿。いえ、某のような敗軍の将に、天下のことなど分かりませぬ。ただ、故郷を思い出し、早く二人の弟に会いたいものだと、感傷に浸っておりました」
その完璧なまでの「無力な敗将」の演技に、袁紹は満足げに頷きながらも、その瞳の奥では、決して油断を解いてはいなかった。
(この男…本当に牙を抜かれたのか、それとも…)
袁紹が去った後、劉備の顔から、笑みが消えた。
彼の脳裏には、離散した義兄弟たちの顔が、今も鮮やかに焼き付いて離れない。
雲長は、私の家族を守るため、屈辱を忍んで曹操に降ったと聞く。必ずや、生きて、私の元へ帰ってくるはずだ。
翼徳は、今もどこかで、再起の機会を窺っているに違いない。
(待っていてくれ、二人とも…)
彼は、卓上の地図を、強く握りしめた。
(今は、耐える時だ。この虎の威を借りる狐となり、己の爪を隠し、牙を研ぐ。袁紹が、曹操との決戦に臨む、その時まで…)
その時、彼の脳裏に、もう一人の男の顔が浮かんだ。
北の地で、同じように、曹操という共通の敵と対峙しているであろう、あの赤い飛将。
呂布。
(あの人もまた、戦っておられるのだな…)
虎牢関で初めて見た時、その常軌を逸した武は、董卓と同質の、ただ恐ろしいだけの力の奔流に見えた。だが、酸棗で見たあの男は、諸侯の私欲を「義」の一言で断じ、民のために戦う君主の顔をしていた。そして今、伝え聞く并州の善政は、劉備に驚嘆を通り越した、畏敬の念すら抱かせていた。
(あの強大すぎる武が、真に『義』のために振るわれているとすれば…その器、我らが測れるほど浅くはないぞ…)
劉備は、呂布が今、自分と同じように、雌伏の時を過ごしていることに、奇妙な、しかし確かな共感と、そして好敵手としての強い意識を感じていた。
あの男は、袁紹を退け、その武威を天下に轟かせた。だが、それでもなお、驕ることなく、民のために頭を垂れ、そして今、曹操という巨大な壁の前に、次の一手を思案しているはずだ。
(貴殿は、その地で、国を富ませるために。そして、私は、この敵の中心で、漢室を再興するために…)
(道は違えど、我らが見ている先は、同じなのかもしれぬな…)
泥にまみれた、ただの石ころ。それが、今の自分だ。
だが、いつか、必ずや。
この泥の中から、再び這い上がり、天下を照らす、比類なき「玉」となって見せる。
その日を、遠い北の好敵手もまた、見ていてくれるだろうか。
劉備は、腹心の孫乾を密かに呼び寄せ、小さな竹簡を手渡していた。
「…これを、行商人に紛れさせ、各地に散った我らの仲間に届けよ。『主は未だ死なず。再起の時は近い』と」
それは、袁紹の監視下で行うには、あまりにも危険な賭けであった。
だが、彼の瞳には、もはや敗軍の将の絶望はなく、乱世の巨魁たちを、その内側から喰い破らんとする、不屈の闘志の炎が、静かに、しかし激しく燃え盛っていた。