表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
153/227

第四十二話:南の戦塵

第四十二話:南の戦塵

官渡で曹操と袁紹が睨み合ってから数ヶ月、冬の厳しさが頂点に達した頃。

并州は、一面の雪に覆われていた。吐く息は白く凍り、凍てつく風が城壁を打ち、堅固な晋陽の石垣さえ軋ませる。

遠く官渡の戦況を伝える報せは途絶えがちになり、并州の国境は薄い氷のように静かな緊張感に包まれていた。城下は比較的穏やかで、人々は厚着をして市に立ち、わずかな食糧や炭を買い求めていた。


しかし、乱世は、北の片隅に築かれた小さな楽土を、長くは見逃さなかった。

その日、吹雪を裂くように、一騎の伝令が城門に姿を現した。

馬は全身から湯気を立て、鼻息は白い霧と化していた。蹄が雪を蹴り上げ、血と泥にまみれた足跡を残す。城門に到達した瞬間、馬は口から泡を吹き、膝から崩れ落ちた。

騎乗していた兵士もまた、鎧に張り付いた凍りついた血と泥が、長い道のりの過酷さを物語っていた。


兵士は雪の上に膝をつき、息を切らしながらも衛兵に叫んだ。

「火急の報せ――中原より!」

その声には切迫と絶望が混じっていた。


軍議の間。

厚い扉が閉ざされ、室内には焚き火の暖かさと、緊張が入り混じる空気が満ちていた。

呂布、陳宮、徐庶、そして宿直にあたっていた張遼が、報せを聞くために集まっていた。

中央に進み出た伝令は、凍える唇を震わせながら口を開いた。

「申し上げます……! 官渡の軍は――陽動にございます! 昨年末より、曹操孟徳、自ら精鋭を率い、徐州を急襲いたしました……!」


その一言で、広間の空気は凍りついた。

火のぱちぱちという音すら、途切れたかのように感じられる。


「……やられたか」

陳宮と徐庶が、ほぼ同時に低くつぶやいた。その声には驚愕よりも、予測していた最悪が現実となったことへの、深い戦慄があった。


彼らは常に、曹操が劉備を狙う可能性を計算に入れていた。だが問題は袁紹だった。

公孫瓚を滅ぼし、河北を統一したあの男が、何を考えているのか――呂布に顔良・文醜を討たれた屈辱を忘れているはずがない。

もし并州が曹操の陽動に釣られて南へ兵を出せば、その隙を突いて袁紹が北から雪崩れ込んでくる危険があった。逆に、袁紹が本気で曹操と戦う意志を持っているのなら、劉備に加勢することで曹操を挟撃できる好機となり得た。


だが、今はあまりにも情報が少ない。袁紹の真意が読めない以上、下手な動きは并州そのものを危険に晒す。

曹操は、并州がこの「動けぬ立場」にあることを計算し尽くし、その上で電光石火の奇襲を仕掛けたのだ。その鮮やかさと非情さは、唇を噛まずにはいられないほどだった。


「劉備殿は……どうされた!」

呂布が玉座から身を乗り出し、声を張った。

伝令は苦渋の色を浮かべ、力なく首を振る。

「劉備殿は、小沛にて奮戦されましたが、衆寡敵せず……城は陥落。北の袁紹を頼り、落ち延びられたと……」


「袁紹だと……!?」

張遼の声には信じられぬものが滲んだ。

あの仁義の君主が、よりにもよって宿敵であるはずの袁紹の軍門に下った――それがどれほどの窮地であったか、容易に想像できた。


だが、悲報はまだ続いた。

「関羽は、劉備殿の御家族を守るため下邳に籠城。しかし曹操の策にはまり孤立、三つの条件を飲み、曹操軍に投降したとのこと。そして……張飛は……」


伝令は一瞬、言葉を失い、唇をかみしめた。

「……張飛は、城が落ちる際、わずかな兵と血路を開き、姿を消しました。行方は、今なお知れませぬ」


義兄弟の離散――。

虎牢関で肩を並べ、あれほどの武勇を誇った三人が、今や散り-散りになり、絶望の淵に追い詰められている。

そのあまりにも非情な現実が、広間の空気を押し潰すように重くのしかかった。

将たちが曹操の謀略と劉備の不運を嘆く中、呂布だけは黙して目を閉じていた。

脳裏に蘇るのは、虎牢関で見た三人の背中――決して折れぬ「義」の姿。

そして酸棗での別れ際、「いつか、また」という言葉なき約束。


(あの男が……あの、民のために涙を流せる男が……袁紹の犬となったか)

(義に厚い関羽が、曹操に降った……だと?)


信じられぬ。信じたくはない。だが、それが現実だ。

これが乱世――理も情も呑み込み、すべてを呑み砕く。


呂布はゆっくりと目を開け、地図の上に描かれた「徐州」の二文字を射抜くように見つめた。

胸に渦巻くのは、曹操の策謀への怒りか、劉備への憐憫か、それともいずれ自らにも降りかかるかもしれぬ運命への薄い恐怖か――彼自身にも判じかねた。


ただ一つ、確かなことがある。

中原の嵐は、すでにすぐそこまで迫っている。并州の束の間の平和は、風前の灯。

北の楽土に、南からの冷たい戦塵が、確かに忍び寄っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ