第四十一ノ二話:河北の咆哮
第四十一ノ二話:河北の咆哮
西暦一九九年、春。
并州の大地には、冬の名残を引きずる凍てつく風がまだ吹きすさび、城壁の石は夜ごと白く霜を纏っていた。そんな中、その冷たさをも吹き飛ばすような、衝撃の報せが北よりもたらされた。
「申し上げます――!」
軍議の間、重い扉を押し開けた伝令が、息を荒げたまま膝をつく。その鎧には、旅の道中で凍りついたであろう泥が付着し、彼の言葉がただならぬものであることを示していた。
「易京、ついに落城! 公孫瓚殿、自ら館に火を放ち、妻子と共に自刃! 袁紹軍、河北の北半分を、完全に平定いたしました!」
その声は石造りの壁に反響し、広間の空気を一瞬にして凍らせた。
集まっていた并州の将たちは、誰もが口を閉ざし、報告の重さを噛みしめる。
伝令の続く言葉によれば、その戦は凄惨を極めたという。袁紹は土山を築き、城を覆うほどの高さまで迫らせた。さらに地下道を掘り進め、城の内外を切り崩し、公孫瓚の誇った難攻不落の防備を、力と物量と時間で押し潰した。その最後の総攻撃――城門を打ち破り、炎と血の中を突き進んだのは、淳于瓊と高覧、二人の猛将だったと。
「……淳于瓊と、高覧か」
低く唸るように張遼がその名を反芻する。
「顔良・文醜亡き後、奴らが袁紹軍の新たな双璧となったわけだ。侮れぬ男たちよ」
沈黙を破る声は少なかったが、その場の誰もが、その言葉の意味を理解していた。
「……そうか。ついに、落ちたか」
玉座に座す呂布は、腕を組み、深く息を吐きながら呟いた。その声には、勝者への敵意も、敗者への憐れみもなかった。ただ、乱世の非情な現実を、重さごと受け止める君主の響きだけがあった。
地図を広げるまでもない。
これで河北の勢力図は完全に塗り替えられた。冀州、青州、そして幽州――并州を除く河北三州の全てが袁紹の手に落ちたのである。
「……袁紹は、これで名実ともに、河北の覇者となりましたな」
陳宮が、眉間に深い皺を刻んで言った。
「公孫瓚という北の憂いを断った今、彼の目が次に向くのは、ただ一つ……」
広間の空気がぴんと張り詰める。
全員の視線が、地図の一点――中原の中心、「許都」へと集まった。そこには帝を擁し、天下に覇を唱える曹操孟徳の名がある。
「袁紹と曹操……かつては董卓を討たんと誓い合った盟友だったはずが、皮肉なものですな」
徐庶が、静かに言葉を落とす。
「盟友だと?」
呂布は鼻で笑った。
「あの酸棗で俺が見たのは、己の野心しか見えぬ獣の群れだけだ。奴らがいずれ食らい合うことなど、初めから分かっていた」
彼の脳裏に、連合軍の会議での醜い争いが蘇る。誰もが董卓討伐を口にしながら、その実、各々が己の利を計算していた。あの場で信じられる者は、結局一人もいなかった。
「問題は、どちらが勝つか、だ」
張遼が、わずかに身を乗り出して言った。
「兵の数で言えば、袁紹が圧倒的。河北三州の力を結集すれば、その軍勢は七十万と号するやもしれん。対する曹操軍は、その十分の一にも満たぬ」
「だが、兵の数だけでは戦は決まらん」
呂布の声は低く、それでいてはっきりと響いた。
「俺は両方の男を知っている。袁紹は名門の出であることを鼻にかけるだけの、器の小さい男だ。だが曹操は違う……あの男の瞳の奥には、底知れぬ何かが潜んでいる」
彼の心に、滎陽で見た光景が浮かぶ。絶望の淵から這い上がり、泥と血の中で笑う梟雄の顔。そして許都で対峙した時に感じた、覇者の気配――それは、戦場の風よりも鋭く、刃よりも冷たいものだった。
「いずれにせよ、我らはこの戦を静観するのみ」
呂布はきっぱりと言い切る。
「奴らが互いに血を流し、疲れ果てるのを待つ。そして、この戦で、どちらが真に漢室を思う者で、どちらがただの逆賊か――その本性を見極める。我らが動くのは、それからだ」
その言葉は、并州の主としての揺るぎない決断であった。
天下の目は、これから始まる二人の英雄の巨大な決戦へと注がれていく。だが呂布、陳宮、徐庶の視線は、そのさらに先――戦の果てに訪れるであろう本当の未来を見据えていた。
河北に轟く勝利の咆哮は、乱世が新たな、そしてより巨大な戦乱の時代へと突入したことを告げる、不吉で、しかし抗い難い運命の序曲であった。