第四十一話:楽土の器
第四十一話:楽土の器
祝宴の華やかさが、まるで花の香りが春風に乗って遠くへ流れ去るように過ぎ去り、あの夜の賑わいも、やがて人々の胸の中で柔らかな思い出へと変わっていった。并州は再び、穏やかな日々を取り戻していた。
季節はゆるやかに巡り、晋陽城の空気は冬を迎える支度で引き締まりつつあったが、その中に漂うのは、ただの冷たさではない。城下の通りを歩けば、屋台から立ち上る湯気に混じって、笑い声や商人たちの威勢の良い声が響く。西涼から来た駱駝隊が異国の香辛料を荷下ろしし、中原の絹商が色鮮やかな反物を並べて声を張り上げる。子供たちが手をつなぎ、新設された学堂の門をくぐっていく姿も珍しくなくなった。朗々とした読書の声が石壁を抜け、冬空の下へと澄んで広がっていく。
かつてこの街が荒廃と恐怖に覆われていた日々は、もはや遠い過去の影となりつつあった。その確かな変化の中心に、二人の若き知性――暁と徐庶――の姿がある。
朝。まだ冷たい光が東から差し込み、静かな書庫を金色に染める。窓際の卓上には開きかけの巻物と、湯気の立つ茶器。ここが二人の仕事場であり、そして新しい日常が織り成される舞台であった。
「元直様、昨夜お考えくださった交易路の件ですが――」
筆を走らせながら暁が口を開く。その声には、夫に話しかける柔らかな響きと、領地を治める者としての確かな意志が同居している。
「西涼との交易が活発になるにつれ、関所での税の徴収に、いくらか乱れが生じているようですわ。特に北門では、豪族の一部が商人から不当な銭を徴収しているとの噂もございます」
「暁様の仰る通りです」
徐庶は即座に応じた。その声音は落ち着いているが、瞳は真剣だ。
「不当な利益を得る者があっては民が疲弊し、ひいては并州の信を損ないます。公正な税率を定め、誰もが納得できる形にせねばなりません。こちらに水路の計算があります。ご確認を」
二人の間には言葉以上の通い合いがあった。暁が眉をわずかに寄せれば、徐庶はすぐにその意図を汲み取る。徐庶が地図の一点を指せば、暁は必要な文書をすぐさま差し出す。まるで一つの頭脳が二つの身体を使って仕事をしているかのようだった。
かつて徐庶の瞳に宿っていた、過去の罪や迷いの影はもうない。代わりにそこにあるのは、愛する女性と共に国を築き上げるという、確かな誇りと喜びの光だった。
その日の午後。訓練を終えた呂布が、珍しく書庫を訪れた。
娘と婿が民に慕われているという噂は、彼の耳にも届いている。しかし呂布は、それをただ言葉で聞くだけでは納得しない。自らの目で確かめたい――そう思ったのだ。かつて自分が格闘し、半ば投げ出しかねた膨大な竹簡の山。その難敵を、この二人がどう乗りこなしているのかを。
扉を開けると、紙の擦れる音と静かな議論の声が耳に入る。娘と婿が肩を並べ、時に笑みを交わし、時に真剣な表情で意見をぶつけ合っている。互いの言葉は淀みなく流れ、息の合い方は見事というほかない。その光景を見た瞬間、呂布は領主としても父親としても、深い満足感を覚えた。
(ふん……あの書生め、俺の娘にふさわしいだけのことはある)
そう心の中で呟き、呂布は二人へ歩み寄ると、大きな手で徐庶の肩をどしりと叩いた。
「ご苦労だったな。……今宵は、久しぶりに親子三人で、ゆっくりと酒でも酌み交わすか」
その声音はぶっきらぼうで、決して飾り立てた言葉ではない。だが、そこには何よりも確かな労わりと信頼が込められていた。徐庶はただ深く頭を下げる。胸の奥に熱いものがこみ上げ、言葉にできなかった。
その夜、三人は囲炉裏端で盃を交わした。薪がはぜる音、湯気を立てる猪鍋の匂い。呂布は昔の戦の話を少しだけし、暁は城下の子供たちの様子を語る。徐庶は交易路の進捗を簡単に報告し、それから話題は自然と家族のことへと移った。
戦の匂いのしない、穏やかで温かな時間――それは乱世にあって何よりも貴い宝であった。
暁はふと、窓の外へ視線を向ける。そこでは、いつの間にか雪が静かに降り始めていた。白い粒が闇に溶けていく様は、まるで神々が降らせる祈りのように思える。
(……この平和が、一日でも長く続きますように)
胸の内で、彼女は静かに祈った。
だが、その祈りの裏側で、天下の奔流は、この北の楽土をいつまでも静かなままにはしておかなかった。
北の地がその輝きを増せば増すほど、その光は中原で覇を競う雄たちにとって無視できぬ存在となる。この平和の静けさは、やがて来るべき嵐の前触れに過ぎないことを――その時、彼女たちはまだ、その影がすぐそこまで迫っていることを知らなかった。