幕間:花嫁の祈り
幕間:花嫁の祈り
晋陽城が、姉・暁と徐庶の祝言に沸き立つ、その同じ夜。
華は、ひとり、自室の窓辺に静かに腰を下ろしていた。
外の賑わいは、厚い障子と壁に隔てられ、この部屋まで届かない。耳に入るのは、かすかな風の音と、自らの息づかい、そして針が布を通るかすかな音だけ。
膝の上には、鮮やかな真紅の嫁入り衣装。
その袖に、華は金色の糸で、寄り添うつがいの鴛鴦を刺繍していく。
ひと針、またひと針──。
指先は迷いなく動き、金糸は月光を吸い込みながら、少しずつ美しい形を描いていく。その手つきは、ただの作業ではなかった。想いを込めるたび、針先は未来へと伸び、糸はその想いをしっかりと結び留めるようだった。
胸の内には、姉の笑顔が浮かぶ。
暁が、徐庶の傍らで静かに微笑む姿。
その姿を思い出すと、自然と口元がやわらぎ、胸の奥に、ほんのりと温かい灯りがともる。それは、祝宴の炎よりもやわらかく、けれど確かに消えることのない光だった。
傍らには、一つのかんざしが置かれている。
白玉の細工が施されたそれは、月明かりを受け、ひそやかに輝いていた。
馬超から贈られたもの――。
華は針を置き、そのかんざしをそっと手に取る。
指先から伝わるひやりとした感触に、思わず目を閉じた。
その冷たさの奥に、あの人の手の温もりを思い出す。
大きく、武骨で、戦場の風に晒されてきた手。
けれど一度、自分の手を包んでくれたときの、その温かさは、今も鮮やかに心に残っている。
(馬超様……)
遠く離れた西涼の地で、今、何を思っているのだろう。
きっと、自分と同じように、この祝言が決まったことを、喜んでくださっているに違いない。
そう考えるだけで、胸の奥が甘く満たされ、深く息を吸い込みたくなる。
けれど、その甘やかさの奥に、ふと小さな不安が顔をのぞかせる。
西涼──あの荒々しく、広大な地で、本当にやっていけるだろうか。
父や姉たちのように、強く聡明ではない自分が、あの若獅子の妻として、果たして務めを果たせるのだろうか。
(……いいえ)
華は小さく首を振った。
迷いを追い払うように、唇をきゅっと結ぶ。
(私は、私のできることを、精一杯すれば良いのだわ)
父のような武勇も、暁姉様のような知恵もない。
飛燕姉様のように、槍を振って戦うこともできない。
けれど──。
自分には、自分だけの戦い方がある。
傷ついた小鳥をそっと手に包み、温もりで癒すように。
疲れた父の傍らに、静かに薬湯を差し出すように。
あの人と、西涼の民の心を、やわらかく包み、安らぎをもたらすこと。
并州と西涼のあいだに、戦の火が二度と灯らぬよう、静かな架け橋となること。
それこそが、この呂布の娘・華に与えられた、天の命なのだ。
「……待っていてくださいね、馬超様」
声はかすかで、けれど確かな想いを帯びていた。
誰にも聞かれることのない、その小さな誓いは、夜気の中でそっと溶け、月明かりとともに彼女を包み込む。
再び針を手に取り、嫁入り衣装に視線を落とす。
金色の糸で縫い上げられた鴛鴦は、まるで生きているかのように輝いていた。
今にも羽ばたき、遠く西涼の空へ飛んでいく──そんな幻を見た気がする。
その姿は、これから自ら歩んでいく道と重なって見えた。
北の地で、花嫁は静かに、けれど確かな決意を胸に、自分の未来を、その手で紡ぎ始めていた。
まだ誰も知らない。
その小さな祈りと決意が、やがて二つの国の未来を、温かく、そして永く照らす光になることを──。