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幕間ノ二:元直の誓い

幕間ノ二:元直の誓い

西暦一九七年、冬。晋陽城、徐庶の私室。


その夜、徐庶は、自室に戻ってからも、まるで夢の中にいるかのような、現実感のない高揚感に包まれていた。

窓の外には、冴え冴えとした冬の月が、皓皓(こうこう)と輝いている。并州の空は、故郷・潁川(えいせん)で見たどの空よりも、高く、そして澄んでいるように感じられた。

彼は、その月明かりを浴びながら、昼間の、あの謁見の間での出来事を、何度も、何度も、頭の中で反芻していた。


呂布将軍からの、許し。

そして、何よりも、暁姫との婚約を、全ての将兵の前で、認めてくださった、あの力強い言葉。

『単福に、お前をくれてやる』


(…信じられない…)


罪人として、この并州に流れ着いた、あの日。

友の仇を討つためとはいえ、人の命を奪い、国の法を破った。その事実は、決して消えることのない烙印として、彼の魂に深く刻み込まれていた。

名を捨て、過去を捨て、ただ学問の世界という、光の差さない書庫の奥にだけ逃げ込むことで、かろうじて心の均衡を保っていた、暗く、孤独な日々。

あの頃の自分は、もう、死んでいたのだ。ただ、知識を詰め込んだだけの、抜け殻だった。


だが、この并州が、その抜け殻に、もう一度、魂を吹き込んでくれた。


彼は、懐から、一枚の、少し古びた書きつけを、そっと取り出した。

『信じっております』

この、たった一言が、全てを変えてくれた。


(暁様…)

彼の胸に、温かく、そして少しだけ切ないものが込み上げてくる。

(あなた様が、私の知に光を当て、孤独だった私の魂に、初めて『対等』な言葉をかけてくださった。あなた様がいなければ、私は、今もあの書庫の隅で、ただ朽ちていくだけの存在でした…)


脳裏に、もう一つの、大きな背中が浮かぶ。

(陳宮先生…)

(あなた様は、罪人である私の全てを知った上で、その手を差し伸べ、この并州に留まる道を与えてくださった。そして、自らの命すら賭して、私を殿に推挙してくださった…)


そして、最後に、あの巨大な、不器用な君主の姿。

(殿…)

(あなた様は、一度は私を拒絶なされた。だが、最後には、この罪人の存在を、そして何より、娘の恋心をも、受け入れるという、常人には到底真似できぬ、あまりにも大きな器を示してくださった…)


感謝しても、しきれない。

この身に余るほどの、温かい光。


「…ああ」

徐庶の瞳から、一筋の涙が、静かにこぼれ落ちた。

それは、悲しみの涙ではない。

罪人「単福」が、完全に死に絶え、そして、この并州で、多くの人々の愛によって、忠臣「徐元直」として、新たに生を受けた、産声にも似た涙であった。


(この御恩、この命、尽き果てるまで、お返しいたします)


彼は、そっと窓を開け、晋陽の冷たい、しかし清澄な空気を、胸一杯に吸い込んだ。

その空気は、彼がこれまで生きてきた、中原のどの土地の空気よりも、甘く、そして優しく感じられた。


(ここが、私の、終の棲家(ついのすみか)か…)


徐元直としての、本当の人生が、今、この北の地で、始まろうとしていた。

彼は、その夜、生まれて初めて、心からの安らぎに満ちた、穏やかな眠りについたという。

夢の中では、彼は、もう誰からも追われてはいなかった。ただ、愛する人の隣で、穏やかに、書を読んでいただけだった。

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