幕間:父の盃
幕間:父の盃
軍議の熱狂が、遠い夏の嵐のように過ぎ去った後――。
さきほどまで無数の声と武具の軋む音に満ちていた広間は、祭りの後のような、不思議な静けさに包まれていた。
将兵たちは、主君が下したあまりにも劇的な采配に、ある者は畏敬の念を、ある者は純粋な興奮を胸に、それぞれの持ち場へと戻っていく。
やがて、その広大な空間に残ったのは、玉座の前に立つ呂布、ただ一人だけ。
石造りの壁が冷たく光り、赤く敷かれた絨毯が、まるで波が引いた後の浜辺のように静まり返っている。
彼は、ゆっくりと自室に戻ると、侍従を全て下がらせた。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
静寂の中、呂布は卓上に置かれた酒盃を手に取り、窓から差し込む月明かりにかざした。
琥珀色の液体が、夜の光を受けてきらめき、その揺らぎがまるで水面に映る月のように盃の中で揺れる。
並の酒なら、并州特有の喉を焼くような強さがあるはずだ。
しかし、今夜はなぜか、驚くほどに甘く、そして温かく感じられる予感があった。
彼は、盃を口に運び、一口、ゆっくりと呷る。
酒が喉を滑り落ち、胸の奥で熱となって広がる。
昼間の喧騒が嘘のように遠のき、代わりに、穏やかだが複雑な感情の波が、寄せては返す。
脳裏に蘇るのは、昼間の軍議の光景。
娘・暁の、あの凛とした、一点の曇りもない告白。
『私にとって、なくてはならないお方です』
そして、偽りの名を捨て、涙ながらに忠誠を誓った若き参謀の、誠実な瞳。
『某の真の名は、徐庶、字を元直と申します!』
「…負けた、か」
呂布は、誰に言うでもなく、自嘲気味に、しかしどこか満足げに呟いた。
自分の過去の傷に根差した頑なな心。
娘を想うが故の、狭い器量。
君主としての、未熟な潔癖さ。
そのすべてが、あの二人の若者の純粋で、あまりにも強い想いの奔流の前に、完膚なきまでに打ち砕かれた。
清々しいほどの完敗――。だが、それは心地よい敗北だった。
呂布は、もう一つの杯に酒を注ぎ、それを、誰もいない向かいの席へとそっと置いた。
その動きは、まるで今もそこに、二人の「父」が座っているかのようだった。
「…じい」
張譲の幻影に向かい、静かに語りかける。
その声は、君主の威圧ではなく、照れくささを隠しきれない息子の声だった。
「あんたが命を賭して守ろうとしたものは、こうしてちゃんと新しい世代に受け継がれていくようだ。お前の最後の諫言がなければ、俺はあの子たちの想いを踏みにじっていたかもしれん。…危ないところだった。すまなかったな」
次に、彼は視線を上げ、さらにその奥にいるであろう、丁原の厳しくも温かい幻影を見つめる。
「親父殿。あんたが言っていた、『義』の本当の意味が、少しだけ分かった気がする。ただ守るだけじゃない。ただ強くあるだけでもない。信じて、託すこと。そして、己の過ちを認めること。それもまた、将の、そして親の『義』なのだな」
彼は静かに息を吐き、わずかに笑った。
「あんたはいつも言っていた。『力だけに頼るな』と。俺はずっと、その言葉の意味を頭でしか理解していなかった。だが今日、腹の底から分かった気がする。俺のこの武は、俺一人のものじゃない。それを信じ、支えてくれる者がいて初めて、本当の力になるのだと」
呂布は向かいの二つの杯を手に取る。
一つは丁原の杯、もう一つは張譲の杯。
そして、自らの杯に静かに注ぎ合わせた。
三つの魂が、一つの杯の中で溶け合っていくかのようだった。
その、三人の想いが満ちた杯を、呂布はゆっくりと、そして敬虔な祈りを捧げるように、一気に飲み干す。
熱い液体が喉を、そして胸を焼く。
だが、その熱さは痛みではなく、確かな誇りと安堵の熱だった。
彼は、わずかに寂しげでありながら、どうしようもない父親としての幸福に満ちた笑みを浮かべる。
「…まあ、良い。あの書生…いや、徐元直ならば、暁を任せても良いだろう」
そして、月を仰ぎながら、誰にも聞こえないほどの声で呟く。
それは悪態にも似た、不器用だが限りない愛情の言葉だった。
「だが、覚えておけよ、元直。俺の娘を、もし一筋でも泣かせるようなことがあれば…たとえ我が軍の参謀であろうと、この俺が、ただではおかぬぞ」
――それは、天上の父たちと未来の息子に向けた、飛将の誓い。
月明かりが彼の横顔を優しく照らし、その眼差しに宿る温もりを、静かに夜が抱きしめていた。
呂布は、空になった杯を卓に置くと、まるで長年の重荷が下りたかのように深く息を吐き、安らかな眠りへと落ちていった。
北の空に浮かぶ月だけが、一人の男が真に「父」となった夜を、静かに見守っていた。