第四十ノ三話:飛将の承認
第四十ノ三話:飛将の承認
軍議の場は、朝から張り詰めた熱気に包まれていた。
広間の中央に置かれた地図の上で、洛陽の城郭と街道が、灯火の揺らぎの中に浮かび上がる。
議題は、新たに領地となった洛陽の統治について――それは、并州の未来を左右する大事であった。
「洛陽の民は、長年の戦乱で疲弊しております。まずは、厳しい法で治安を回復させるべきです!」
武断派の張遼が、低く響く声で言い放つ。彼の拳は机上の地図を叩き、その決意を刻むかのように震えていた。
「いや、それでは民の心が離れる! まずは減税策を!」
反論するのは古参の文官たち。細身の指が地図上の市場や耕地を示し、数字と実利の重要さを訴える。
武断派と文治派――二つの意見は真っ向から対立し、議論は熱を帯びて紛糾していく。
その喧騒の中で、呂布は玉座から静かに全員を見下ろしていた。
昨夜、陳宮に全てを言い当てられ、諫められた彼の心は、すでにひとつの答えを見出していた。
その眼差しには、かつての迷いも苛立ちもなく、ただ決断の色だけが宿っている。
やがて、彼は、議論の波を断ち切るように、低く、しかし広間全体を震わせる声を放った。
「…暁」
父の静かな呼びかけに、広間の隅で議論の行方を見守っていた暁の肩が、はっと震える。
その声には、命令の響きと同時に、不思議な温かみがあった。
「父上…」
「前に出よ」
その瞬間、将たちの驚きと戸惑いが、一斉に彼女へと向けられた。
暁は、緊張にこわばった足で、ゆっくりと父の前へ進み出る。
胸の奥で鼓動が強く鳴り、(父上は、全てお見通しだった…?)という一抹の不安が心をよぎる。
呂布は、軍議の議題から逸れるかのように、全く違う問いを投げかけた。
その表情は、君主の冷徹さではなく、不器用な父親の真剣さを帯びていた。
「暁。…お前は、参謀・単福という男を、どう思う?」
広間の空気が、一瞬にして変わる。
張遼をはじめとする武将たちがざわめき、文官たちは互いに視線を交わした。
暁の白い頬が、一瞬で林檎のように赤く染まったが、それでも俯かずに父を見据える。
今こそ、自らの覚悟を示す時だと理解していた。
彼女は、父の瞳を、そして広間の隅で驚きに目を見開く単福の顔を一度だけ見つめると、息を整え、凛とした声で答えた。
「…単福殿は、この并州にとって、そして…私にとって、なくてはならないお方です」
その言葉は、ためらいも飾りもない、魂からの告白だった。
広間の空気が張りつめ、誰一人として口を開かない。
「…そうか」
呂布は、娘の揺るぎない覚悟を見て、満足げに、そして少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「ならば、良い」
そして彼は、広間の全員に向き直った。
「皆、聞いたな。この洛陽復興という難題、若い知恵に任せてみるのも一興やもしれん」
その視線は、まだ呆然と立ち尽くす若き参謀へと向けられた。
「―――単福、前へ」
名を呼ばれた単福の胸が激しく高鳴る。
視線が一斉に彼に集まる中、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、呂布と暁の隣へ進み出た。
「単福よ。お前の知恵、そして暁の知識。その二つを合わせ、この洛陽をどう治めるべきか、今この場で、俺と皆に示してみせよ」
大きな信頼と試練を同時に与えられた瞬間だった。
暁は、隣に立つ単福と短く視線を交わし、互いに頷き合う。
二人は、まるで一つの頭脳であるかのように語り始めた。
「洛陽の問題は、治安か経済か、どちらか一つを立て直すことでは解決いたしませぬ。重要なのは、その両輪を、同時に、そして力強く回すことにございます」
暁がまず大方針を示し、単福が具体策を補う。
「まず、張遼将軍に精鋭兵を率いていただき、洛陽周辺の治安維持に専念していただきます。ただし、法は厳格であれど、無慈悲であってはなりませぬ。信賞必罰を徹底し、民に『法は我らを守るものなり』と知らしめるのです」
「そして、治安が回復しつつある地域から、大胆な減税策と屯田制を実施します。流民には土地と農具を与え、最初の三年間は収穫の九割を自らのものとすることを許す。これにより、民は自らの手で土地を耕す喜びを知り、洛陽は再び豊かな大地として蘇りましょう」
武断派と文治派、両者の顔を立てつつ対立を解く完璧な献策。
広間は、抑えきれぬ感嘆のどよめきに包まれた。
呂布は、二人の姿を、どこか晴れやかな目で見つめた。
「見事だ。…俺は、娘にも、そして貴様にも、負けた」
それは衝撃的な敗北宣言だった。
「この父親の知らぬ間に、お前たちは手を取り合い、この俺を、そしてこの并州を、見事に支えてくれていた。その絆と知恵の前に、俺の頑なな心は、完敗だ」
彼は、悪戯っぽく笑った。
「だが、それで良い。この父親を超えていくことこそが、子の務めだ。…よくやった、二人とも」
再び君主の顔に戻った呂布は、厳かに宣言する。
「今聞いた洛陽復興の儀、その計画の立案と差配の一切を、我が参謀と、我が娘・暁に一任する!」
そして、娘の肩に大きな手を置いた。
「そして、暁。お前の想いも、父は確かに受け取った。―――この男に、お前をくれてやる」
それは罪人への完全な赦しであり、参謀への絶対的な信頼であり、愛娘の恋を認める最高の祝福だった。
「…もったいなき、お言葉…!」
単福は、涙で声を震わせながら深く額を床にこすりつける。
「この上は、もはや偽りの名で殿と皆様を欺くことはできませぬ。某の真の名は、徐庶、字を元直と申します! この徐元直、生涯をかけて、殿と、暁様にお仕えいたします!」
皆の前で初めて明かされた真名。
その誠意と覚悟に、呂布は力強く頷いた。
二年越しの恋がついに成就した瞬間――。
父という巨大な壁を、二人は誠意と知性で乗り越えた。
その涙に濡れる二人を、呂布は満足げに、そして少しだけ羨ましそうに見つめていた。