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幕間:軍師の諫言

幕間:軍師の諫言

書庫での一件を知った呂布が、嵐のような感情を内に秘めて自室に戻った、その翌朝。

彼の元を、一人の男が訪れた。軍師・陳宮である。


「…何の用だ、陳宮」

呂布の声は、夜通し続いたであろう内なる葛藤を反映し、低く、そして重かった。

「殿。昨夜、書庫での一件、耳にいたしました」

陳宮は、単刀直入に切り出した。その顔に、驚きや狼狽の色はない。まるで、こうなることすら、彼の計算の内であったかのように。


「…見ていたのか」

「いいえ。ですが、殿がこのような顔をされるのは、戦場で敵に囲まれた時か、あるいは、姫君たちのことか。どちらかしかございません故」

陳宮は、静かに茶を淹れながら、続けた。

「殿のお怒り、ごもっとも。某も、暁様も、殿に隠し立てをしていたことに違いはありませぬ。ですが、殿。一つだけ、お考えいただきたい」


「何だ」

「なぜ、暁様が、そのような手段を取らねばならなかったのか、ということでございます」

陳宮は、淹れた茶を、そっと呂布の前に差し出した。

「姫君は、殿の心を、誰よりも深く理解しておられます。殿が、単福の過去を、そう易々とはお許しにならぬことも。だからこそ、姫君は、まず『結果』を示すことを選ばれた。単福の知が、この并州にとっていかに有益であるかを、殿ご自身に実感していただくために」


「……」

呂布は、何も言わずに、湯気の立つ茶を見つめていた。


「殿。某が、かつて曹操の元を去ったのはなぜか、覚えておいでですかな」

唐突な問いに、呂布が顔を上げる。

「奴が、信義よりも覇道を重んじたからだろう」

「左様。ですが、それだけではありませぬ」

陳宮は、呂布の目を真っ直ぐに見据えた。

「あの男は、人の心を、己の覇道のための『駒』としか見なかった。だが、殿は違う。殿は、人の心の痛みが分かる御方だ。張譲殿を失った、あの痛みをご存知だからこそ、民の痛みに寄り添うことができる」


その言葉は、呂布の心の、最も柔らかな部分に突き刺さった。


「単福は、罪を犯しました。ですが、それは友を想うが故の激情。暁様は、その激情の危うさを、殿と同じく、誰よりも理解しておられる。だからこそ、彼女は、単福の『盾』となり、その知が道を誤らぬよう、支えようと決心なされたのです」

「…盾だと?」


「左様。殿が、我ら并州全土を守る『盾』であるように。暁様は、単福という、あまりに鋭すぎる『矛』を、その理性で守り、正しく導くための『盾』となろうとしておられるのです。その二つが揃って初めて、并州は真に盤石となる。…殿、大きな川の流れを見る時、その源流にある小さな石くれに、いつまでもお心を囚われてはなりませぬぞ」


「……」


「ですが」と陳宮は続けた。その声は、静かだが、もはや退路を断った覚悟に満ちていた。

「真の君主とは、臣下の過去を問うのではありません。その才と、今ここにある忠義を見るものです。殿は、張譲殿の死という尊い犠牲から、『民を守る』という、偉大な道を見出された。ですが、その一方で、その悲しみは、殿の心に、『人を信じきれぬ』という、新たな枷を嵌めてしまったのではないのですか」


「黙れと言っている!」

呂布の怒声が、広間を震わせた。


「張譲殿の死を、新たな『心を閉ざすための枷』となさいませぬよう! それこそが、自らの命を賭して、殿に『独りではない』と教えようとした、あの忠臣への、最大の裏切りとなりましょうぞ!」


それは、軍師としての、命を懸けた諫言であった。


呂布は、怒りに顔を歪め、陳宮の胸ぐらを掴み上げた。その巨躯から放たれる覇気は、並の人間であれば、それだけで気を失うほどのものだった。

だが、陳宮の瞳は、少しも揺らいでいなかった。ただ、静かに、そして悲しげに、主君の顔を見つめ返している。


「…なぜだ」

呂布の唇が、震えていた。

「なぜ、お前は、いつもそうだ。俺が、ようやく一つの答えを見つけたと思うたびに、お前は、その奥にある、俺自身の醜さや、弱さを、容赦なく抉り出してくる…」


「それこそが、某の役目なれば」

陳宮は、静かに答えた。

「殿は、天を衝く矛。ですが、その矛は、あまりにも鋭すぎる故に、時にご自身をも傷つける。某は、その矛を収める『鞘』。殿が、決して道を誤らぬよう、その激情を受け止め、諫めること。それこそが、殿と、今は亡き丁原様に誓った、我が忠義の形にございます」


その、揺るぎない言葉。

呂布の腕から、力が抜けた。彼は、まるで子供のように、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えていた。

そうだ。この男は、いつもそうだ。

自分が、ただの獣に戻りそうになる時、必ず、この男が、人間としての道へと引き戻してくれる。


「…俺は、怖かったのだ、陳宮」

呂布の口から、初めて、弱音とも言える言葉が漏れた。

「爺を、守れなかった。俺の力の、慢心のせいで。だから、もう、誰も失いたくなかった。暁が、俺の知らぬ男を信じ、その男のために心を砕いているのが、許せなかった。また、俺の知らぬところで、俺の大切なものが、奪われていくのではないかと…」


「…存じております」

陳宮は、静かに、しかし、温かく言った。

「ですが、殿。愛とは、支配することではございません。信じることです。暁様は、殿を信じ、そして徐庶殿を信じられた。そして、殿もまた、最後に、その二人を信じられた。それこそが、真の『強さ』ではございませんか」


呂布は、長い間、黙ってその言葉を受け止めていた。

やがて、彼は、ふっと、まるで憑き物が落ちたかのような、穏やかな笑みを浮かべた。

「…陳宮。お前には、いつも敵わんな」

彼は、立ち上がると、陳宮の肩に、大きな手を置いた。

「…感謝する。お前が、俺の軍師で、友で、本当に良かった」


それは、呂布が、自らの弱さを完全に認め、そして、陳宮を、もはや疑うことのない、絶対的な魂の半身として受け入れた瞬間であった。


「もったいなき、お言葉」

陳宮は、深く、深く、頭を下げた。その瞳には、かすかな涙が光っていた。


「全ては、殿のため、そして、并州の未来のため。…さあ、殿。軍議の刻限でございます。将兵たちが、殿のお言葉を待っておりますぞ」


呂布は、ゆっくりと立ち上がった。

その顔には、もう、父親としての葛藤はない。

全てを受け入れ、その上で、次の一手を決断した、君主の顔が、そこにあった。

彼は、陳宮と共に、運命の軍議の場へと、確かな足取りで向かうのであった。

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