第四十話:姫君の戦い
第四十話:姫君の戦い
月下の誓いを交わした翌日から、晋陽城の水面下で、一つの静かなる「戦い」が始まった。
それは、呂布という巨大な壁を、二人の若き知性が、いかにして乗り越えるかという、長くも壮大な戦いであった。
暁の行動は、それまで以上に精力を増していった。
朝の食卓、昼下がりの茶席、そして夕餉の後の短い歓談——彼女はその一つひとつを、見えぬ戦場と定めた。
父の気分が和らぐ刻を見極め、何気ない会話の中に策を織り込み、少しずつ核心へと迫っていく。
「父上。洛陽の統治の件ですが、ただ兵を置くだけでは、いずれ民の心が離れましょう。まずは流民を呼び戻すための減税策と、治安を回復させる法整備が必要かと存じます」
ある時は、君主を諫める臣下のように、真剣な面持ちで。
その言葉に呂布は眉を動かし、しばし黙考する。
「それから、城下の商人たちが、新たな交易路のことで困っておりました。西涼との絆が深まった今こそ、新たな市の開設をお許しいただければ、并州の経済はさらに潤うはずです」
またある時は、民の声を代弁する使者のように、柔らかな語調で。
机の上に置かれた杯の水面が、燭の光を受けて揺れるたび、その瞳も同じように光を帯びる。
呂布は当初、娘の成長ぶりにただ目を丸くしていた。
「暁…お前、いつの間に、そんな陳宮のようなことを言うようになったのだ…」
そう呟く口元には、驚きと共に、抑えきれぬ誇らしさがにじむ。
やがて彼は、ほとんどの策が理にかなっていることを認め、「うむ…よかろう。陳宮とよく相談せよ」と採用を許すようになった。
だが暁は、その笑顔の裏に、かすかな罪悪感を抱えていた。
自分が語る策の根幹は、夜ごと書庫で徐庶と共に練り上げたものだからだ。
彼が膨大な知識と熱に似た発想力で骨子を築き、暁が父や豪族たちの性格、并州の現実に合わせて冷静に整える。
熱き「心」と冷徹な「理」が交わり、それは陳宮すら舌を巻く完成度へと昇華する。
しかし暁は、決して徐庶の名を口にはしなかった。
(今は、まだ…)
父の胸に残る深い傷を知るからこそ、焦りは最大の敵だと理解している。
父が自らの意志で、あの人の価値に気づく、その日まで——。
(今は私が、あの人の『盾』となり、『剣』となるのだ)
姫としての立場を武器にし、父の懐へと、少しずつ、しかし確実に、徐庶の知恵という楔を打ち込む。
それが今の自分にできる、唯一の戦い方だった。
その頃、書庫では徐庶が新たな竹簡に向かっていた。
灯火の小さな炎が揺れ、墨の香が静かな空気を満たす。
今ごろ暁姫が、父君の前で自分たちの策を語っている——そう思うと、胸の奥に熱と緊張が交互に込み上げる。
もどかしさを飲み込みながら、彼は筆先を進めた。
父という巨大な壁の向こうにある未来を思い描き、その一字一字に、信頼と決意を刻み込む。
こうして二人の若き知者の戦いは、静かに、しかし熾烈さを増しながら、歩みを進めていった。