第三十九ノ二話:月下の問答
第三十九ノ二話:月下の誓い
西日が地平に沈み、書庫の窓から差し込んでいた橙色の光が消えると、部屋はしだいに藍色の闇に包まれていった。
それでも二人の議論は止まらなかった。机の上には巻き広げられた竹簡と筆記具が散らばり、灯された油皿が、わずかな炎で彼らの横顔を照らしている。
暁が並べたのは、父・呂布が長年頭を悩ませてきた、并州各地の豪族たちとの複雑な利権と対立の数々。
単福はそれを受け、信じられない速さと緻密さで、一つひとつの解決策を導き出していく。
油皿の炎が揺れるたび、その影が壁に踊り、二人のやり取りがまるで戦場の策謀のような緊張感を帯びていった。
いつしか窓の外には、満月が天頂近くに昇っていた。白銀の光が薄雲を透かして差し込み、机上の竹簡を青白く照らし出す。
「…いけない。もう、こんな刻限に」
暁は名残惜しそうに立ち上がる。指先には、議論に夢中で握っていた筆の温もりがまだ残っていた。
「単福殿。今宵の話、明日にでも父上へ進言いたします。これだけの策を積み重ねれば、きっと…」
その声の調子には、父を説得するという固い決意がにじんでいた。
「お待ちください、姫君」
単福が、やや低い声で呼び止める。その声音には、これまでとは違う重みがあった。
暁が振り返ると、彼は油皿の光を受けて、その黒い瞳をいっそう深く輝かせていた。
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「なんでしょう?」
「姫君は、なぜ、某のような者を、そこまで信じてくださるのですか」
それは、長く胸に秘めてきた問いだった。
「某は、友の仇を討つため、激情に駆られて剣を抜き、国の法を破った罪人。殿がその激情を危うしと見るのは当然のこと。ですが、姫君は…」
暁は彼の視線を逸らさぬまま、ゆっくりと窓辺へ歩み寄った。
外には、月光を浴びて白く浮かび上がる晋陽の城下が広がっている。
夜気は冷たく澄み、遠くの町からは微かな犬の遠吠えと、宵更けを告げる梵鐘の音が届いた。
「私は、父を見て育ちました」
その声は夜の静寂に凛と響き、油皿の炎がわずかに揺れた。
「父上は天下無双の武をお持ちです。けれど、その強すぎる力が激情を呼び、大切なものを傷つけることもありました。その心を本当に諫められたのは、亡き丁原様と張譲様だけ…」
脳裏には、戦の後、一人きりで杯を傾ける父の背中がよみがえる。肩越しに見たその孤影は、幼い彼女の胸に深く焼き付いていた。
「だからこそ分かるのです」
振り返った暁の瞳には、深い共感と揺るぎない確信が宿っていた。
「あなたの激情は弱さではない。友を想うが故の優しさであり、『義』そのもの。ですが、それは道を誤らせる危うさも秘めています。それは父上も、そしてあなたも同じなのです」
単福は、油皿の炎越しにその言葉を受け止めた。
「…姫君…」
「だからこそ、私が必要なのです」
暁の瞳が月光を反射し、鋭くも温かく輝く。
「あなたの熱き『心』を、私の冷徹な『理』で支える。あなたの知が道を誤らぬよう、その道筋を私が照らし続ける。そして、あなたは私の孤独な『知』を、その熱さで温めてくれる。私たちは二人で一つ——だから、信じられるのです」
その告白は、優しさでも慰めでもない。魂と魂が正面から交わる、覚悟の言葉だった。
単福は胸の奥から熱が込み上げるのを堪えきれず、ゆっくりと膝をついた。
「この単福——いえ、徐元直、生涯をかけてあなた様と、そして殿にお仕えすることを、この月にかけて誓いまする」
初めて明かされた真の名。その響きは、彼が過去との決別を果たし、新たな人生を歩むと宣言する鐘の音のようだった。
暁は驚きに目を見開き、すぐに全てを受け入れるように微笑む。
その時、薄雲が流れて月を隠し、書庫に一瞬、柔らかな陰が落ちる。
だがやがて雲は払われ、満月の光がふたたび溢れ出し、二人を包み込んだ。
それは、二つの孤独な魂が一つに結ばれた証。
まだ誰にも知られぬ若き参謀と姫君の誓いを、天上の月が静かに見届けていた。




