幕間:軍師の賭け
幕間:軍師の賭け
黒山賊の陣営跡から立ち上る煙は、未だ空に黒い染みを残していた。勝利の熱気と、後片付けの喧騒が渦巻く陣営の中、陳宮は一人、自らの粗末な幕舎で地図を睨んでいた。だが、その目は地図の上を滑り、思考は別の場所を彷徨っていた。
(…本当に、これで良かったのか)
脳裏に浮かぶのは、かつて共に董卓打倒を夢見た男の姿。
兗州の地で見た、曹操孟徳という男の、底知れぬ才気と、人を惹きつけてやまない覇気。あの男の元にいれば、いずれ天下をその手にする様を、間近で見られただろう。乱世を終わらせるという大業に、自らの知略を存分に振るえたはずだ。
だが、同時に思い出す。理想を語るその瞳の奥に宿る、冷徹すぎるほどの現実主義と、目的のためならば親友すら切り捨てることも厭わぬ、非情な一面を。そして、自らの覇道のためならば、たとえ民を犠牲にすることも厭わぬであろう、その危うい資質。
(孟徳殿、あなたの覇道は、確かに天下への近道やもしれぬ。だが、その道はあまりにも乾いており、人の温かみというものがない…)
自分は、それに耐えられなかった。理想と現実の狭間で苦しみ、故郷を捨て、天下を放浪する道を選んだ。そして、流れ着いたこの北方の地で、一人の男に出会った。
呂布奉先。
天下無双の武勇。しかし、その内面は驚くほどに幼く、不器用で、そして危うい。強敵を前にすれば我を忘れ、単純な挑発に乗り、人の心の機微にはあまりに疎い。将としての器量は、正直なところ、曹操の足元にも及ばないかもしれなかった。
(なぜ、自分は、この男に賭けようと思ったのか…)
陳宮は、自問する。そして、先日の呂布とのやり取りを思い出す。
『それは、親父殿の教えられた『義』にかなうのか?』
あの真っ直ぐな瞳。己が信じる「義」の形に、不器用なまでに拘ろうとする、純粋さ。そして、育ての親である丁原に向ける、裏切りの欠片もない絶対的な「誠」。
(そうか…)陳宮は、静かに得心した。
(あの男は、荒ぶる神だ。人の心を解さぬ、強大すぎる力そのもの。導き方を間違えれば全てを破壊し、自らも滅びるだろう。だが…)
彼の目に、熱がこもる。
(もし、その強大な力を、正しく導くことができたなら…?民を守るための盾として、乱世の不義を討つための矛として、振るわせることができたなら…?)
それは、曹操の元で天下を取るよりも、遥かに困難で、そして遥かに価値のある大業ではないか。
あの男は、まだ磨かれていない原石だ。いや、あまりに強大すぎて、誰も磨き方を知らなかっただけの、神代の至宝。
(この陳宮の生涯を賭けるに値する、危険な賭けだ…)
陳宮の口元に、ふっと笑みが浮かんだ。それは、諦念でも、自嘲でもない。これから始まるであろう、困難極まる道のりに対する、軍師としての武者震いにも似た、静かな興奮であった。
「将軍…」彼は、誰に言うでもなく呟いた。「あなたのその『誠』、この陳宮が、天下に示す『義』の旗印として、見事に掲げてご覧にいれましょうぞ」
この乱世に「力」ではなく「義」の旗を立てる。その理想を実現するための、最も純粋で、最も危険な「駒」として、彼は呂布を選んだのだ。
陳宮は、地図の上に、次なる目的地である「酸棗」の地を、指で力強く示した。そこには、天下の綺羅星たちが集う、偽りの義が渦巻く舞台が待っている。自らが選んだこの荒ぶる神が、その舞台でいかなる神威を見せるのか。軍師の目は、既に次の一手を見据えていた。




