第三十九話:姫君の誓い
第三十九話:姫君の誓い
西涼の使節団が去り、晋陽城は華やかな祝宴の余韻を残しながらも、穏やかな日常へと戻っていた。
だが、暁の心は晴れない。
妹・華の幸せは心から喜ばしい。けれど、その輝きが増すほど、自らの影が濃く落ちていくようで、胸の奥が静かに沈んでいく。
父・呂布は、今回の遠征で単福殿の才を認め、皆の前で正式な参謀とした。暁にとって、それは望外の喜びだった。
しかし父が認めたのは、あくまで「并州軍の参謀」としての価値。罪人であった彼の過去まで赦したわけではない。
父の、あの頑ななまでの潔癖さを知っているからこそ、その事実が暁の胸を重くする。
(このままでは、父上と単福殿の間に、見えぬ壁が永遠に残ってしまう…)
その日の午後、暁は気分を変えようと書庫へ向かった。
扉を押し開けると、山のような竹簡に囲まれた単福が、筆を走らせている。机の上には洛陽統治のための新たな法案の草稿が広がり、紙と墨の香りが静かに漂っていた。
「…単福殿」
「姫君…! いかがなさいましたか」
顔を上げた単福の瞳には、驚きと喜びが入り混じっていた。
暁は机上の草案に目を通し、その緻密さに感嘆の息を漏らす。
「見事なものですわ。これなら洛陽の民も、安らかに暮らせましょう」
「いえ、まだまだです。法の抜け道を塞ぐ罰則規定が…」
会話は自然と国の未来の話へと移っていく。
この知性が響き合うひとときこそが、暁にとって唯一、心を軽くしてくれる時間だった。
だが、ふと単福が言葉を切り、眉を寄せて暁を覗き込む。
「…姫君。お悩みでも? 宴の後から、お顔の色が優れませぬが」
その優しさと、すべてを見透かすような眼差しに、暁は心の堤を崩された。
「…父上のことですわ。あなたを参謀としては認めてくださった。でも、その『過去』までは許していない。それが、私にはとても…歯がゆいのです」
一瞬、単福の表情に影が落ちた。だがすぐに穏やかな笑みを戻し、静かに告げる。
「姫君、それは致し方ありません。殿の胸にある傷は深いのです。某がなすべきはただ一つ——知略を尽くして并州の力となり、いつか殿ご自身が過去を越えてくださる日を信じ、待つことです」
その覚悟の深さに、暁の胸が熱くなる。
自分はただ不安を抱えているだけ。この人は運命と真正面から向き合っているというのに。
「…いいえ」
暁は首を振り、その瞳に決意の光を宿す。
「待つだけでは、いけませんわ。父上は道理を解さぬ方ではない。ならば私たちが示しましょう。あなたの『知』と私の『知識』を合わせ、誰もが認めざるを得ない結果を。父上が、過去など些細だとお思いになるほどの、圧倒的な成果を」
それは慰めではなく、共に戦うという誓いだった。
単福は息を呑む。
目の前の姫君は、ただ美しいだけの花ではない。嵐に立ち向かうことを厭わぬ、誇り高き魂の持ち主だ。
「…姫君」
熱が声に滲む。
「あなた様となら、きっと——」
「ええ」
暁は力強く頷いた。
「あなたとならば」
もはや二人の間に、主君の娘と罪人という壁はない。
ただ、同じ志を持つ二人の知者がいるだけだった。
窓から差し込む西日が、一度雲に遮られ、室内が薄く陰る。
そのわずかな闇は、二人の前に立ちはだかる父の影か、それとも世の荒波か。
しかし次の瞬間、雲が流れ、黄金色の光がふたたび差し込む。
その温もりは、これから二人が進む道を照らし出すかのようだった。
二人は静かに視線を交わし、その光を背に受けながら、未来への誓いを胸に刻んだ。