幕間:軍師の盤上
幕間:軍師の盤上
晋陽の城内が、主君の凱旋とその武功を祝う熱気に沸き立つ中、軍師・陳宮は、一人、静かに自らの執務室で地図を睨んでいた。
彼の元には、遠征軍から送られた詳細な報告書が、すでに届けられている。黒沙との戦いの顛末、単福の神業のような献策、そして、許都での曹操との息詰まるような外交戦の全てが、そこには記されていた。
(…ふっ)
報告を読み終えた陳宮の口元に、満足げな、そしてどこか面白がるような笑みが、静かに浮かんだ。
兵士たちは、「大将軍」という称号に酔いしれているだろう。だが、この交渉の真の価値は、そんな虚名にあるのではない。
(曹操め、してやったり、という顔をしておるだろうな)
陳宮の脳裏には、好敵手である曹操の顔が浮かんでいた。
帝を擁し、大義名分を手中に収める。返す刀で、厄介な呂布軍には、荒れ果てた洛陽という価値のない土地と、中身のない官位を与えて追い返す。見事な手腕だ。常人であれば、曹操の完全勝利と思うだろう。
(だが、孟徳よ。貴様は、自らの手で、最も危険な駒を、自らの喉元に置いてしまったのだぞ)
陳宮の指が、地図の上で、許都と洛陽、二つの点を結んだ。
その指先に、まるで天下の全てを掌握したかのような、絶対的な確信が宿る。
(単福…見事に、我が意を汲んでくれたか)
陳宮は、自らが選んだ若き弟子の成長に、師として、そして同じ知者として、純粋な喜びを感じていた。
洛陽は、守るための城ではない。攻めるための「楔」。
いずれ曹操が北の袁紹と雌雄を決する時、その背後にあるこの「楔」は、彼の判断を鈍らせ、兵力を分散させ、その覇道を根底から揺るがす、致命的な毒となる。
そして、陳宮が何よりも喜ばしいと感じていたのは、その策を、呂布自身が選び取ったという事実だった。
かつての殿であれば、短慮を起こし、許都に攻めかかっていたやもしれぬ。
だが、今の殿は違う。激情を抑え、参謀の言葉を信じ、目先の屈辱よりも、未来の実利を選んだ。
(殿は、変わられた。ただの猛将ではない。自らの武を、いつ、どこで、どのように振るうべきかを理解する、真の『将』の道を、歩み始められたのだ)
その成長こそが、并州にとって、何よりも大きな勝利であった。
陳宮は、ゆっくりと立ち上がると、窓の外に広がる晋陽の街並みを見下ろした。
祝宴の準備で、街は活気に満ちている。
(盤面は、整った)
西は、馬騰との血の同盟により、盤石。もはや、後顧の憂いはない。
南には、洛陽という強力な楔を打ち込んだ。
そして、この并州は、自分が「盾」となり、完璧に守り抜く。
単福が殿の「矛」を磨き、自分が并州の「盾」を固める。
そして、その二つの力を、呂布将軍という、天賦の器が束ねる。
今、この并州は、天下のどの勢力にも劣らぬ、最強の布陣を敷いたのだ。
陳宮は、遠い許都の空を見上げ、心の中で、まだ見ぬ弟子の労をねぎらった。
「よくやった、単福。そして、お見事でございます、我が主君」
彼の顔には、この国の未来を、そして自らが描いた壮大な盤上の駒が動き出したことへの、静かな、しかし揺るぎない自信が満ち溢れていた。
本当の戦いは、ここから始まるのだ、と。