第三十七ノ二話:飛将の楔
第三十七ノ二話:飛将の楔
許都からの帰路。并州軍の隊列は、行きとは違い、どこか晴れやかな空気に包まれていた。兵士たちの間からは、主君が「大将軍」となったことを祝う陽気な歌声すら聞こえてくる。
だが、軍の中枢を進む一団の空気だけは、重い沈黙に支配されていた。
呂布の傍らを進む張遼が、ついに、その張り詰めた空気に耐えかねたように口を開いた。
「殿。まことに、これで良かったのでしょうか」
彼の顔には、単純な不満ではなく、心からの憂慮の色が浮かんでいる。
「大将軍の位は名誉なこと。ですが、帝の身柄は曹操の手に落ちたまま。そして、我らが手にしたのは、荒れ果てた洛陽のみ…。あまりに、得るものが少ないのでは」
彼は、手にした地図を広げた。
「長安には夏侯惇殿の軍が入り、関中は完全に曹操殿の勢力圏となりました。これでは、我らが治める洛陽は、本国の并州と分断された『飛び地』。あまりにも危険です。兵站線が伸び切り、曹操が本気で道を断てば、洛陽は完全に孤立し、絵に描いた餅となりましょうぞ」
それは、張遼という百戦錬磨の将が下した、あまりにも正しく、そして常識的な判断であった。
呂布は、張遼の言葉に、何も答えなかった。ただ、馬上から、隣を静かに進む、若き参謀の顔を一瞥した。その視線は、「どう思うか」と問うているのではない。「お前の考えを、この男に聞かせてやれ」と、静かに命じていた。
その視線を受け、単福が、静かに口を開いた。
「張遼将軍。ご懸念は、ごもっともです。戦の定石で考えれば、将軍の仰る通り、洛陽は守るに値しない脆い土地。ですが」
彼は、そこで一度言葉を切ると、張遼が広げた地図を指さした。
「定石とは、時に、それを打ち破る者のためにこそ存在するのです。物事には、常に表と裏がございます」
単福の指が、地図の上で、許都と洛陽の位置を示した。
「ご覧ください。洛陽は、曹操が本拠とする許都の、まさに喉元。我らがこの地に兵を置くということは、曹操の喉元に、常に冷たい刃を突きつけているのと同じことにございます」
彼の声に、熱がこもり始める。
「曹操の最大の敵は誰か。我らではありませぬ。北に広大な領土を持つ、袁紹本初。いずれ、両者は必ず、雌雄を決することになりましょう。その時、彼は、常に背後にある我らの刃を気にしながら、戦わねばならなくなる。もし、彼が袁紹との戦に全力を注ぎ、許都の守りが手薄になれば、我らはいつでも、この洛陽から出撃し、彼の心臓を貫くことができるのです」
「…つまり、洛陽は、守るための城ではなく、攻めるための…」
張遼が、息を呑んだ。彼の思考が、目の前の若者の言葉によって、根底から覆されていくのを感じた。
「左様」
単福は、きっぱりと頷いた。
「洛陽は、我らが中原に打ち込んだ、強力な『楔』。この楔がある限り、曹操は我らを無視して天下盗りに集中することはできませぬ。彼が動けば、我らも動く。彼が止まれば、我らも止まる。この『楔』こそが、我らに、天下の情勢を動かす主導権を与えてくれるのです」
主導権。その言葉の重みに、張遼は完全に言葉を失った。
自分は、ただ領土の広さや守りの堅さという、目に見えるものだけで物事を判断していた。だが、この若者は、数年先の未来、そして敵の心理までを読み切り、天下全体の大きな流れを、自分たちの手元に引き寄せようとしている。
彼は、目の前の若き参謀の顔を、畏敬の念で見つめることしかできなかった。
「…そういうことだ、張遼」
それまで黙って聞いていた呂布が、満足げに言った。
「あの書生は、俺の武が、最も効果的に敵の心臓を抉ることができる場所を、俺に与えてくれたのだ。面白いではないか」
彼は、遠い并州の空を見上げた。
「陳宮も、おそらくは同じことを考えているだろう。并州と洛陽。北と南、二つの拠点から、この中原を睨む。ふん、天下も、案外、狭いものよ」
その声には、もはや覇者と対峙した後の疲れはない。次なる、より大きな戦いへの、確かな手応えと、静かな高揚感が満ちていた。
洛陽という、一見、価値のない荒れ地。
だが、その領有は、呂布軍の戦略を、単なる辺境の防衛から、天下の趨勢を左右する、より大きな次元へと引き上げる、重要な一歩となったのである。
そして、その価値を最初に見抜いた若き参謀・単福の名は、この日を境に、呂布軍の将兵たちの心に、深く、そして確かに刻み込まれることとなった。