幕間ノ三:参謀の盤上
幕間ノ三:参謀の盤上
許都の宿営地。
遠くから聞こえてくる兵士たちの陽気な宴の声を、単福は自らの幕舎で、静かに聞いていた。
「大将軍」という、天下に轟く響きの良い称号。荒れ果てているとはいえ、旧都・洛陽という新たな領地。兵士たちが勝利を信じ、士気を高めるのも無理はない。
だが、単福は、卓上に広げた一枚の地図を睨みつけながら、その熱狂の中心にはいなかった。
彼の頭脳は、今この瞬間も、次なる戦いの盤面を冷静に描き出している。
(曹操の勝ちか、我らの勝ちか…)
表面だけを見れば、曹操の圧勝だ。
彼は、我らが黒沙と死闘を繰り広げている間に、無傷で帝を手中に収めた。天下に号令する「大義名分」という、何物にも代えがたい至宝を手に入れたのだ。
それに比べ、我らが手にした「大将軍」の位など、所詮は名誉だけの虚名。洛陽もまた、董卓によって焼き払われた、統治するにはあまりに骨が折れる荒れ地に過ぎない。
(だが…)
単福の指が、地図の上で、許都と洛陽、二つの点を結んだ。
その指先に、まるで電流が走るかのような、知的な興奮が込み上げてくる。
(曹操は、あまりに勝ちすぎたが故に、一つの致命的な失策を犯した)
彼は、我らに洛陽を与えた。
それは、彼にとって、価値のない土地をくれてやることで、呂布将軍という厄介な武人を、一時的に満足させるための「餌」だったのかもしれない。
だが、その「餌」は、彼の喉元に突きつけられた、毒の刃に変わるのだ。
単福の脳裏では、数年先の未来まで見据えた、壮大な盤面が構築されていた。
曹操の最大の敵は、北にいる袁紹。いずれ、両者は必ず、雌雄を決する。その時、曹操は全軍を率いて、官渡のあたりで袁紹と対峙することになるだろう。
そうなれば、帝を擁する本拠地・許都の守りは、必ず手薄になる。
(その時こそ、この洛陽が、真価を発揮する)
洛陽は、許都の目と鼻の先。
我らがこの地にいる限り、曹操は、常に背後を気にしながら、袁紹と戦わねばならなくなる。
并州の本隊と、洛陽の別動隊。
この二つの拠点が、曹操の領地を、北と南から挟み込む、巨大な鉗子となるのだ。
(守るための洛陽ではない。攻めるための洛陽。我らが中原に打ち込んだ、強力な『楔』なのだ)
この策の真意を、呂布将軍は、果たして理解してくださっただろうか。
いや、と単福は首を振る。
あの御方は、交渉の場で、自ら「義」を貫き、駆け引きに終止符を打たれた。あの決断を下せる今の殿ならば、必ずや、この「楔」の意味を理解してくださるはずだ。
彼の脳裏に、聡明な姫君の顔が浮かぶ。
(見ていてください、暁姫様)
(この洛陽こそが、あなた様が信じてくれた、この単福の知略の、最初の一手。この一手から、我らは、天下の盤面を、我らの望むままに動かしてみせます)
単福は、静かに地図を巻き取った。
外の喧騒は、まだ続いている。だが、彼の心は、凍てつくような静寂と、未来を見通す者だけが持つ、絶対的な確信に満ちていた。
この交渉は、我らの勝利だ、と。