幕間ノ二:怪物の祝杯
幕間ノ二:怪物の祝杯
その夜、許都の丞相府は、静かな勝利の喜びに満ちていた。
呂布軍の宿営地から聞こえてくる陽気な宴の声を、曹操は自室の窓辺で聞きながら、満足げに口元を歪めた。
「…ふん。大将軍とは、随分と響きの良い称号よな。あの獣には、過ぎた飾り物よ」
背後には、彼の誇る二人の天才軍師、荀彧と郭嘉が控えている。
「まことに、お見事でございました、殿」
荀彧が、静かな、しかし心からの称賛を込めて言った。
「荒れ果てた洛陽と、実権の伴わぬ官位を与えることで、あの呂布を追い返す。兵を一兵も損なうことなく、并州という最大の脅威を、一時的にではあれ、無力化なされました。まさに、神業にございます」
「違いない」
郭嘉もまた、愉悦を隠しきれないといった表情で続けた。
「あの呂布のこと、いずれ洛陽の統治に手を焼き、并州との連絡線の維持に苦しむことになるでしょう。我らが道を少しばかり脅かしてやれば、あの男は中原の厄介な『飛び地』に釘付けとなる。その間に、我らは心置きなく、北の袁紹を叩けまする」
三人の間には、完璧な勝利を収めた者だけが持つ、絶対的な余裕が流れていた。
曹操は、杯に満たされた酒を一気に飲み干すと、笑った。
「呂布は、確かに変わった。だが、所詮は武人よ。名誉という餌を与えてやれば、喜んで食いつく。あの男が、洛陽という『首輪』の意味に気づくのは、一体いつになることかな」
彼の目には、呂布も、そしてその傍らにいた若き参謀・単福も、全ては自らの掌の上で踊る駒に過ぎなかった。
(陳宮の弟子とやらも、なかなかの切れ者ではあったが…この曹孟徳の、深謀遠慮の前にあっては、まだまだ赤子同然よ)
だが、その時。
曹操の脳裏に、交渉の最後に見た、あの若き参謀の顔が、ふと、よぎった。
別れの挨拶をする彼の表情は、敗者のそれではない。むしろ、こちらの深慮を全て見透かした上で、静かな、そして絶対的な勝利を確信しているかのような、不遜なまでの自信に満ちていた。
あの目は、一体何を意味する…?
(まさか…あの男、洛陽という駒の、別の使い方に気づいているとでもいうのか…?)
一瞬だけ、曹操の背筋を、冷たいものが走った。
だが、彼は、すぐにその考えを、自嘲の笑みでかき消した。
(何を考える。あの若造に、この俺の策の、さらにその裏が読めるものか)
彼は、二人の天才軍師と共に、静かに祝杯を挙げた。
天下の趨勢は、完全に我らの手中にある。
北の袁紹を滅ぼした後、次にあの并州の鬼神をどう料理してやるか。
怪物の思考は、すでに、遥か先の未来を見据えていた。