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幕間:玉座の憂鬱

幕間:玉座の憂鬱

西暦一九七年、夏。許都、皇宮。


夜の帳が下り、宮殿の回廊から人の気配が消える頃。

若き天子、劉協(りゅうきょう)――漢王朝第十四代皇帝、献帝の、もう一つの時間が始まる。

昼間、彼は、玉座という名の、華美な舞台の上で、完璧な傀儡かいらいを演じきった。丞相・曹操が提出する上奏を、ただ頷いて承認し、諸侯からの使者を、感情の無い顔で引見する。その瞳には、天子の威光も、個人の意志も、何一つ映ってはいない。ただ、そこにあるだけの、美しい人形。それが、彼に与えられた役目であった。


だが、夜。

侍従を全て下がらせた私室で、彼は、ようやく一人の青年、劉協に戻る。

部屋には、贅を凝らした調度品が並び、焚かれた香が、甘く、そして重く立ち込めている。だが、その全てが、彼の孤独を際立たせるための、精巧な舞台装置にしか見えなかった。

彼は、窓辺に歩み寄ると、冷たい格子に額を押し付け、遠い西の空を見つめた。

かつて都であった、長安の空。


(朕は…一体、いつまで、この金色の鳥籠の中にいれば良いのだ…)


物心ついた時から、彼の人生は、常に誰かの掌の上にあった。

宦官たちの思惑。

何進の野心。

そして、あの恐怖の象徴、董卓。

長安での日々は、悪夢そのものであった。董卓の巨躯から発せられる暴力的な威圧感と、酒と血の匂いが、彼の幼い心を蝕んだ。あの男に比べれば、李傕・郭汜の狼どもは、まだ御しやすい獣ですらあった。

そして今、自分を守るという名目で現れた、曹操という男。


董卓のように、あからさまな暴威を振るうわけではない。

李傕・郭汜のように、粗野な欲望を剥き出しにするわけでもない。

あの男は、常に礼を尽くし、臣下として、完璧に振る舞う。

だが、それ故に、献帝は、曹操が誰よりも恐ろしかった。


あの男の、穏やかな笑みの奥にある、氷のように冷たい瞳。

その瞳は、決して自分を「天子」としては見ていない。「漢王朝の皇帝」という、天下を動かすための、最も価値のある「駒」として、値踏みしているのだ。

その事実に気づいた時、献帝は、董卓の前にいた時とは質の違う、底知れぬ恐怖に囚われた。

董卓は、分かりやすい嵐だった。だが、曹操は、静かに、しかし確実に、全てを飲み込んでいく、底なしの沼だ。


(誰も、朕を助けてはくれぬ…)

(誰も、この漢王朝を、本気で救おうとはせぬ…)

酸棗に集った諸侯たちも、結局は己の野心のために争うだけの、獣の群れだったと聞く。

絶望。

それが、若き天子の世界を覆う、唯一の色であった。


―――数日前、あの男が現れるまでは。


彼の脳裏に、数日前の、あの謁見の光景が、鮮やかに蘇る。

并州から来たという、あの赤い鬼神、呂布奉先。

初めは、董卓と同類の、恐ろしいだけの武人だと思っていた。その圧倒的な覇気は、確かに、人を震え上がらせるものがあった。

だが、違った。

曹操が作り出す、あの息詰まるような空気の中で、あの男だけが、何者にも屈しない、絶対的な「個」として、そこに立っていたのだ。


二つの言葉が、彼の耳に、今も焼き付いて離れない。

一つは、曹操に向けた言葉。

『俺は、誰かの下につく気はない。俺には、守るべき并州の民がいる。俺は、并州の主だ』


帝である自分を前にしてすら、「臣下」ではなく「主」であると、堂々と宣言したあの男。

それは、不敬であるはずなのに、なぜか、献帝の胸をすくような、熱い快感があった。

曹操の前では、誰もが口にできない、魂の自由を叫ぶ言葉だったからだ。


そして、もう一つは、自分に向けられた、忠義の言葉。

『帝をお救いし、漢室の権威を取り戻す。そのための戦ならば、この呂布、いつでも力を貸そう』


あの男の瞳には、嘘も、計算もなかった。

他の諸侯たちが浮かべるような、自分を利用しようとする、濁った光は、微塵も感じられなかった。

そこにあったのは、ただ、漢室への、愚直なまでの忠誠心。

そして、乱れた世を憂う、一人の武人の、純粋な「義」の心だけが、烈火の如く燃え盛っていた。


(あの男は、本物やもしれぬ…)


献帝の、絶望という名の氷で覆われた心に、初めて、小さな、しかし確かな亀裂が入った。

一筋の、熱い光が、差し込んできたかのようだった。

(曹操のように、朕を駒として利用するのではなく、真に漢室の臣として、力を貸してくれるやもしれぬ…)


それは、あまりにもか細く、あまりにも儚い希望。

だが、暗闇の中にいる者にとって、その僅かな光こそが、生きるための全てとなる。


「…誰か、あるか」

献帝は、声を潜め、しかし、これまでになく強い意志を込めて、侍従を呼んだ。

やて、彼の最も信頼する側近であり、外戚でもある国舅(こっきゅう)董承(とうしょう)が、静かに私室へと入ってきた。


「陛下、いかがなさいましたか。お顔の色が…」

董承は、若き天子の瞳に宿った、これまで見たことのない強い光に、驚きを隠せないでいた。


「董承よ。其方に、頼みがある」

献帝は、董承を側近くに招くと、さらに声を潜めた。その声は、微かに震えていたが、それは恐怖から来るものではない。希望と、そして、自らが初めて踏み出す一歩への、武者震いであった。

「并州の呂奉先…あの男について、もっと詳しく調べよ」

「呂布…将軍、でございますか」

董承の声に、警戒の色はない。むしろ、虎牢関で董卓軍を打ち破り、滎陽で曹操を救ったという、あの義将への、純粋な興味が滲んでいた。


「そうだ。あの男が、真に信じるに値する『義』の士であるかどうか、この目で確かめたい。并州の統治はどうか。民は、彼を慕っているか。そして…あの男が掲げる『義』の、その根源にあるものは何なのか。…分かるな?」


「―――御意」

董承は、若き天子の、その並々ならぬ覚悟を悟り、深く、深く、頭を下げる。

彼の目にもまた、主君と同じ、かすかな希望の光が宿っていた。


金色の鳥籠の中で、無力と思われていた若き皇帝が、初めて自らの意志で、動き始めた。

この、誰にも知られぬ小さな布石が、やがて、曹操の覇道を根底から揺るがす「衣帯詔(いたいしょう)」という、巨大な嵐の最初のそよ風となることを、まだ、この国の誰も、知る由もなかった。

ただ、許都の夜空に浮かぶ月だけが、その歴史的な一夜を、静かに見下ろしていた。

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