第三十七話:大将軍・呂布
第三十七話:大将軍・呂布
数日にわたる交渉は、平行線を辿っていた。
并州側は、軍師・単福が中心となり、「滎陽での恩義」と「并州軍の武威」を盾に、一歩も引かない。
対する曹操側も、荀彧・郭嘉の両名が、「帝を擁する大義名分」と「中原の地の利」を背景に、巧みに呂布を臣従させようと試みていた。
互いに決定的な一手を打てぬまま、時間だけが過ぎていく。
その均衡を破ったのは、意外にも、呂布自身の一言であった。
最後の交渉の席。
曹操が改めて官位と金銀財宝を提示し、自らの幕僚として迎えるという最大限の譲歩案を示した、まさにその時。
退屈そうにしていた呂布が、おもむろに身を起こした。
「……もう、良い」
地を這うような低い声に、その場にいた全員の視線が彼に集まる。
「曹操殿。貴殿の言いたいことは分かった。だが、小難しい駆け引きは性に合わん」
呂布は玉座に座す献帝に、一度だけ深く頭を下げると、曹操に向き直った。
「俺が望むのは、ただ一つ。この乱れた世を正し、民が安らかに暮らせるようにすること。それは、亡き親父殿、丁原の遺志でもある。帝をお救いし、漢室の権威を取り戻す。そのための戦ならば、この呂布、いつでも力を貸そう」
その言葉には、何の裏もない、純粋な「義」の響きがあった。
「だが」
呂布は続ける。その双眸に、並ぶ者なき武人の威光が宿っていた。
「俺は、誰かの下につく気はない。俺には守るべき并州の民がおり、俺は并州の主だ。そのことだけは、帝ご自身が相手であろうと、決して譲らん」
あまりにも堂々とした宣言に、曹操は息を呑んだ。
そして、悟る。
この男を、力で、あるいは地位や金で屈服させることは不可能だ、と。
(――ならば)
曹操の頭脳が、高速で回転する。
(今は、この男を名目上の『味方』として泳がせておくのが最善……)
「……見事だ、呂布将軍」
しばしの沈黙の後、曹操は破顔した。
「貴殿のその揺るぎなき『義』、この曹孟徳、確かに受け止めた。よろしい。ならば互いに利害を超え、対等な立場で、共に漢室を支えていこうではございませんか」
曹操は帝に進み寄り、何事かを囁く。
帝は、おずおずと、しかしはっきりと、勅命を下した。
「呂布将軍を、漢の大将軍に任ずる! 并州に加え、旧都・洛陽に『大将軍府』を開き、常駐することを許す。これを拠点とし、西方の守りの要とせよ!」
「「おおーっ!」」
その場に、どよめきが走った。
大将軍。それは、漢王朝における最高軍事職。
そして、洛陽の支配権。それは、呂布が中原に確固たる足掛かりを得たことを意味していた。
表向きは、呂布の完全な勝利であった。
だが、単福は、その裏にある曹操の恐るべき計算を見抜いている。
(曹操め……。我らに破格の官位と、今はまだ価値の低い荒れ地(洛陽)を与えることで不満を逸らし、時間を稼いだか。その間に、奴は帝を完全に手中に収め、中原を固めるだろう……)
呂布もまた、そのことに気づいていた。
しかし、彼はそれで良いと思った。
(今はまだ、貴様と事を構える時ではない、曹操……)
こうして、偽りの和睦は成立した。
数日後、呂布軍は「漢の大将軍」という新たな威光をその身にまとい、許都を後にする。
兵士たちの顔には、誇りと自信が満ち溢れていた。
だが、呂布の、そして単福の心は晴れやかではない。
「大将軍・呂布」の誕生。
それは并州軍にとって輝かしい栄誉であると同時に、彼らがもはや引き返すことのできぬ、中原の覇権争いの渦中へと、完全に足を踏み入れたことを意味していたからだ。
二人の英雄は、互いに笑みを浮かべながらも、次なる戦いの始まりを、確かに予感していた。