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幕間:若き狼の眼差し

幕間:若き狼の眼差し

夕暮れの陣営は、血と汗、そして焦げ付いた肉の匂いに満ちていた。勝利の歓声はとうに止み、今はただ、負傷者の呻きと、鎧を修理する金属音だけが、冷たい風に乗って響いている。


張遼は、一人、陣営の隅で自らの得物である長槍の手入れに没頭していた。湿らせた布で、こびりついた血脂を黙々と拭い去る。滑らかな鉄の感触だけが、先程までの狂乱が夢ではなかったことを、彼の指先に教えていた。


脳裏に、あの光景が焼き付いて離れない。

獣道を駆けた時の、足裏に突き刺さるような鋭い石の感触。兵たちの、限界を超えた苦悶の呼吸。そして、全てを賭して廃寺に火を放った時の、肌を焼く熱風と、天を焦がす黒煙。


(我らは、役目を果たした…)


だが、それ以上に彼の心を捉えて離さないのは、谷間でただ一人、敵の大軍を一身に引きつけていた、主君・呂布の、あの燃えるような深紅の後ろ姿だった。


(あの方の武は、まさしく天賦のもの。荒ぶる神そのものだ…)


武人として、その圧倒的な武勇に魂が震える。あの背中に追い付きたい、いつか並び立ちたいという、焦がれるような思いが込み上げてくる。


しかし、彼は同時に、別の感情も抱いていた。それは、畏怖であり、そして微かな、しかし拭いきれない懸念だった。

(だが、あの武は、あまりにも激しすぎる。まるで、燃え盛る炎だ。御しきれねば、いつか我ら自身をも焼き尽くしてしまう…)


軍師・陳宮が現れるまで、自分たちは為す術もなく、あの泥沼の中でもがいていた。あのままでは、奉先様の神がかり的な武勇も、忠義を尽くす兵たちの命も、無為に消耗されていただけだっただろう。


彼は、ふと、本陣があった丘の方角に目をやった。そこに立つ、痩身の軍師の姿を思い浮かべる。

(あの男…陳宮殿は、まるで深い淵だ。何を考えているのか、底が見えぬ。だが、あの人の言葉は、奉先様の激しい炎を、自在に操る風となるのかもしれん…)


初めは、どこからともなく現れた得体の知れない男に、警戒心を抱かなかったわけではない。だが、彼の授けた策は、完璧だった。そして何より、その策は、呂布の武を最大限に活かし、兵の犠牲を最小限に抑えるためのものだった。あの男は、奉先様を、そして我ら并州軍を、正しく理解している。張遼は、自らの武人としての勘がそう告げているのを感じていた。


彼は、磨き上げた槍を、すっと立てた。穂先が、夕闇の中で星のように鋭く光る。


(奉先様が天を駆ける、ただ一つのほこであるならば…)


彼の心は、決まっていた。

主君の圧倒的な輝きに嫉妬するのでも、ただ盲従するのでもない。


(俺は、その影となり、隙を突く第二の矛となろう。そして、陳宮殿の張り巡らせた策の糸が、万が一にも切れぬよう、この槍で支える。それが、この張文遠の忠義だ)


武勇と知略。その二つの翼を持つことで、呂布軍は新たな高みへと飛び立つだろう。そして自分は、その翼が折れぬよう、決して驕ることなく、冷静に戦場を見つめ、己の役割を全うする。


若き狼の瞳に、北方の夜空に輝き始めた一番星のような、静かで、しかし揺るぎない決意の光が宿った。彼は、これから始まるであろう「天下」という、より広大な戦場を前に、自らの魂を研ぎ澄ませていた。

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