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幕間:参謀への誘い

幕間:参謀の誓い

数日にわたる、息の詰まるような交渉が続いた、ある夜。

単福の元に、曹操からの、密かな呼び出しがあった。


案内されたのは、宮殿の奥深く、書物だけが並べられた、静かな一室。

そこには、豪華な朝議の服ではなく、質素な平服を纏った曹操が、一人、灯火の下で書を読んでいた。


「…来たか」

曹操は、書から目を上げることなく、静かに言った。その声には、昼間の覇者の威圧感はなく、ただ、一人の男としての、どこか疲れた響きがあった。

「まあ、座れ。酒でも、と思ったが…貴殿は、酒よりも茶を好みそうだな」


単福は、黙って一礼し、曹操の向かいに座した。卓上には、上質な茶器が二つ、既に用意されている。


「…見事なものだ、単福殿」

曹操は、ようやく書を置くと、単福の目を真っ直ぐに見つめた。

「荀彧や郭嘉が、舌を巻いていたぞ。あの二人を相手に、一歩も引かぬどころか、逆に主導権を握りかねぬとはな。貴殿のその知、まさに千金の値打ちがある」


「…もったいなきお言葉」


「褒めているのだ。そして、惜しんでいる」

曹操の声が、少しだけ低くなった。

「なぜ、呂布なのだ? あの男は、確かに天下無双の武を持つ。だが、その魂は、あまりにも真っ直ぐで、そして脆い。いずれ、この乱世の濁流に、その身を砕かれるだろう。貴殿ほどの才覚があれば、もっと大きな舞台で、その知を振るうべきだ。―――我が元へは、来ぬか?」


それは、あまりにも直接的な、そして抗いがたいほどの魅力を持つ、誘いであった。

帝を擁し、中原に覇を唱えつつある、この男の下でならば、自分の知略は、天下を動かす力となりうる。


だが、単福は、静かに首を横に振った。

「曹操公のお申し出、身に余る光栄にございます。ですが、お断りいたします」


「…理由を、聞かせてもらおうか」

曹操の瞳が、鋭く光る。


「某には、この身を捧げると誓った方々がおられますので」

その言葉と共に、単福の脳裏に、三人の顔が鮮やかに浮かんだ。


一人は、師である陳宮様。

あの人は、罪人である某を拾い、その知に価値を与え、輝くべき場所へと導いてくださいました。先生が信じた道を、弟子である某が信じるのは当然のこと。


そして、我が主君、呂布将軍。

公が「脆い」と断じたあの御方は、確かに不器用かもしれません。ですが、あの人は、自らの罪と向き合い、民のために変わろうと、今もがき苦しんでおられる。その姿に、某は真の君主の器を見ました。


最後に、もう一人。

并州には、某の過去を問わず、その知だけを見て、『信じております』と言ってくださった、姫君がおられます。

某の知は、天下を動かすためではなく、ただ、あの人が信じてくれた未来を守るためにこそ、あるのです。


その、あまりにも真摯で、揺るぎない言葉を聞いた瞬間、曹操の顔から、表情が消えた。

彼は、遠い目をして、呟いた。

「…また、同じ言葉か」

彼の脳裏に、もう一人の男の顔が、鮮やかに蘇っていた。


「かつて、我が元にも、お前と同じようなことを言った男がいた。奴も、お前のように、腐った漢王室を憂い、天下の民を救うのだと、青臭い理想を語っていた。私は、奴の才能に惚れ込み、共に天下を目指そうと誓った。奴の名は…陳宮、公台」


曹操の口から、師の名が出た。単福は、ただ黙って、次の言葉を待った。


「奴は、私の最初の友であり、最高の知恵袋だった。だが、奴は去った。私が、乱世を終わらせるために、時に非情とならねばならぬことを、理解できなかったのだ。…いや、理解しようとしなかった」

曹操の握りしめた拳が、微かに震えていた。

「公台は、言ったよ。『貴殿の覇道は、あまりにも乾いている』と。そして、あの呂布の元へと去った。奴は、私の現実主義よりも、あの男の、子供のような純粋さを選んだのだ」


それは、覇者が、誰にも見せたことのない、弱音であった。

単福は、初めて、目の前の怪物の、その鎧の下にある、深い孤独と、癒えぬ傷を見た。


「曹操公」

単福は、静かに言った。

「陳宮先生は、貴殿を裏切ったのではありますまい。ただ、お二人が目指す『頂』の景色が、違っていた。それだけのこと。そして、某もまた、先生と同じ景色を見たいと願う者でございます」


その言葉に、曹操は、全てを悟ったように、長く、深い息をついた。

「…そうか。ならば、仕方あるまい。…行け」


単福が、静かに一礼し、部屋を辞そうとした時、曹操が、背後から最後の言葉を投げかけた。

「―――だが、覚えておけ。いつか、貴殿らが信じるその青臭い『義』が、我が『覇道』の前に、いかに無力であるかを、思い知る日が来るだろう」


それは、決別した友の弟子に対する、最後の警告であり、そして、自らが選んだ孤独な道への、悲壮なまでの決意表明であった。

若き参謀は、その言葉を背に受けながら、静かに、そして確かな足取りで、自らが信じる主君の元へと、帰っていくのであった。

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