幕間:徐州の三兄弟
幕間:徐州の三兄弟
西暦一九六年、初春。徐州、下邳城。
城内の一室。穏やかな春の日差しとは裏腹に、そこに集う三人の男たちの表情は、一様に険しかった。
卓上に広げられた地図を囲み、彼らは北と西から届いた、天下を揺るがす二つの報せについて、重い沈黙の中で語り合っていた。
「…呂布将軍が、黒沙を討ったか」
最初に口を開いたのは、劉備であった。その声には、安堵と、それ以上の複雑な響きが含まれていた。
「黒沙のような外道が討たれたことは、万民にとっての喜びであろう。だが、あの呂布将軍の武威は、留まるところを知らんな…」
「ほう…」
傍らで、見事な髭をしごきながら、関羽が静かに頷いた。
「黒沙は、虎牢関で某も刃を交わしましたが、まさしく獣そのもの。それを、正面から打ち破るとは、あの男の武、さらに磨きがかかっておるようですな」
関羽の瞳に、武人としての純粋な感嘆と、そして負けられぬという闘志の光が宿る。
「だが、兄者。某が驚いたのは、その武勇ではござらん。伝え聞くところによれば、此度の勝利、単に力押しだけではなかったとか。敵の策の裏をかく、見事な用兵があったと聞き及んでおります。…あの天翔けるが如き男が、ついに地に足をつけ、人の知恵を用いることを覚えたというのですかな」
関羽は、呂布という好敵手の、人としての成長に、畏敬の念を抱いていた。
「けっ!」
その静寂を破ったのは、張飛の不満げな声だった。
「知恵だぁ? まどろっこしいぜ! あの馬鹿みてえに強い男が、ごちゃごちゃ考えやがって! 俺と一騎打ちするんじゃなかったのかよ!」
彼は、酒を呷りながらも、どこか寂しそうだった。
だが、劉備の憂いは、そこにはなかった。
彼の視線は、地図のもう一点、西に位置する「許」と「長安」の地へと注がれている。
「…翼徳。それよりも、問題は曹操だ」
その名が出た途端、部屋の空気が、さらに重くなった。
「あの男、我らが袁術とにらみ合っている隙に、帝をその手に収め、さらには長安まで手中に収めたという…。なんという、抜け目のなさ…」
劉備の声には、隠しきれない焦燥があった。
漢室の末裔として、帝をお救いし、漢王朝を復興させること。それが、彼の生涯をかけた大義であったはずだ。
だというのに、その最大の功名を、曹操孟徳に、いともたやすく、先んじられてしまった。
「兄者、何を迷うことがある!」
張飛が、卓を叩いて立ち上がった。
「帝を操り、天下を我が物にしようって腹だろ、あの野郎は! 漢の忠臣を気取る、国賊だ! 俺たちが、すぐにでも兵を挙げて、帝をお救いすべきだ!」
「ならぬ、翼徳」
それを制したのは、関羽であった。
「曹操は、今や帝を奉じる『官軍』。我らが兵を向ければ、それこそ、我らが『賊軍』の汚名を着せられることになる。それこそが、あの男の狙いなのだ」
「ぐっ…!」
張飛が、悔しそうに唸り、再び席に座る。
劉備は、二人の弟のやり取りを、ただ黙って聞いていた。
そして、静かに立ち上がると、窓の外を見つめた。
穏やかな徐州の地。自分がようやく手に入れた、民が安らかに暮らす国。
(だが、この安寧は、いつまで続く…)
北には、武と知を揃え、大義を掲げて南下する、呂布奉先。
西には、帝と大義名分を手に、天下をその掌中に収めんとする、曹操孟徳。
二人の怪物が、今、許都で、直接まみえようとしている。
この会談が、どのような結果に終わるのか。
手を結ぶのか、あるいは、決裂するのか。
その結果次第で、この徐州も、否応なく、天下の大きなうねりの中に飲み込まれていくことになるだろう。
(私は、どうすべきなのだ…)
(この漢室の未来を、そして、私を信じてくれるこの徐州の民を、どうすれば守り抜けるのだ…)
答えの出ない問いを胸に、劉備は、ただ、北と西の空を、憂いを帯びた瞳で見つめ続けるのであった。
三英雄の道もまた、新たな、そして、より困難な岐路に立たされていた。