第三十六話:飛将と兗州の怪物
第三十六話:飛将と兗州の怪物
許都の城門は、呂布軍を歓迎するために、大きく開かれていた。
城壁には、色とりどりの旗がはためき、出迎える曹操軍の兵士たちは、整然と隊列を組み、その矛先を地面に向けて、恭順の意を示している。その光景は、まるで凱旋将軍を迎えるかのようであった。
だが、呂布も、そして彼の傍らに立つ単福も、その華やかな歓迎の裏にある、冷徹な計算を見抜いていた。
(見せつけてくれる…)
呂布は、内心で舌打ちした。
兵士たちの鎧は、磨き抜かれ、寸分の乱れもない。その瞳には、百戦錬磨の自信が宿っている。これは、歓迎であると同時に、「我らの力は、貴殿らに決して劣るものではない」という、曹操からの無言の示威行為であった。
「…面白い」
呂布の口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。「ならば、こちらも応えてやらねばな」
彼は、赤兎の手綱を軽く引き、その歩みを、さらに堂々としたものへと変えた。その背後で、并州軍の兵士たちもまた、主君の意を汲み、その胸を張り、一糸乱れぬ行進を続ける。
北の荒野で鍛え上げられた、野性的で、しかし鋼のような規律。それは、曹操軍の整然とした美しさとは対極の、荒々しい力の顕現であった。
許都の民は、二つの異なる「最強」がぶつかり合う、その凄まじい気迫に、ただ息を呑むばかりであった。
宮殿の一室。
豪華な玉座に、帝である献帝が座し、その一段下に、事実上の主として、曹操が静かに呂布を待っていた。
やがて、呂布が、張遼と単福だけを伴い、その広間へと入室する。
曹操は、ゆっくりと立ち上がると、満面の笑みを浮かべて、呂布の前へと歩み寄った。
「呂布将軍! よくぞ参られた! 滎陽でのご恩、この曹孟徳、生涯忘れませぬぞ!」
彼は、そう言うと、衆人が見守る前で、呂布に向かって深々と頭を下げた。
その、あまりにも完璧な「恩人を出迎える覇者」の姿に、張遼ですら一瞬、気圧された。
だが、呂布は動じなかった。
「顔を上げられよ、曹操殿。礼を言われる筋合いはない。俺は、俺の『義』に従ったまでだ」
その声は、静かだったが、広間全体に響き渡った。
二人の英雄の視線が、交錯する。
言葉はなくとも、互いの魂が、激しく火花を散らしていた。
(変わったな…)
曹操は、内心で戦慄していた。目の前の男は、滎陽で会った時のような、ただの猛将ではない。その瞳の奥には、多くのものを背負い、国を治める君主としての、計り知れないほどの深みが加わっている。
(これが…陳宮の仕事か…!)
(この男もまた…)
呂布もまた、曹操の変化を感じ取っていた。かつて、敗走の際に見た、あの野心家のぎらつきはない。その代わりに、天下の全てをその双肩に担う覚悟を決めた、絶対的な覇者の気配が、その全身から溢れ出ていた。
(油断ならぬ男よ…)
「さあ、まずは帝にご拝謁を」
曹操が、先に視線を逸らし、偽りの笑みを浮かべる。
二人の英雄の、言葉なき戦いの第一幕は、こうして、静かに始まった。
その背後で、単福と、曹操の傍らに立つ荀彧や郭嘉といった謀臣たちの間でもまた、もう一つの、氷のように冷たい戦いが、既に始まっていたことを、まだ誰も知らなかった。