幕間:怪物の掌上
幕間:怪物の掌上
西暦一九六年、初春。兗州、許。
かつては寂れた地方都市であったこの地は、今、新たな都「許都」として、にわかな活気に満ちていた。
その中心、真新しい丞相府の一室で、一人の男が、地図の上に置かれた駒を、満足げに指でなぞっていた。
曹操孟徳。
彼の顔には、兗州での反乱を平定した頃の疲労の色はない。代わりに、天下の趨勢を、自らの掌の上で転がしているかのような、絶対的な自負と、底知れぬ野心が宿っていた。
「見事なものですな、殿」
傍らに立つ軍師、荀彧が静かに言った。
「李傕・郭汜が長安で争い始めたとの報が入るや、即座に洛陽へ兵を進め、廃墟の中から帝をお救い出し、この許の地へお迎えする。まさに電光石火の早業。天下の誰もが、殿の迅速さに度肝を抜かれたことでしょう」
「ふん、好機は逃さぬ。それだけのことよ」
曹操は鼻を鳴らしたが、その口元は愉悦に歪んでいる。
帝を手に入れた。それは、この乱世において、他の何物にも代えがたい「大義名分」という最強の武器を手に入れたことを意味する。
さらに、彼はもう一つの駒、「長安」と書かれた駒を、ゆっくりと自陣へと引き寄せた。
「帝という魂が抜けた後の長安など、もはやただの抜け殻よ。夏侯惇に僅かな兵を与えてやっただけで、赤子の手をひねるが如く、我らのものとなった。これで、関中という天然の要害も、我らのものだ」
政治の中心地である「許都」と、軍事的な要衝である「長安」。その両方を、僅かな期間で手中に収めた。
この怪物の、恐るべき戦略眼と実行力であった。
だが、と曹操は思う。
彼の思考を、唯一、乱す存在がいる。北の并州に巣食う、あの男。
「…呂布は、どう動いた」
その問いに、荀彧は一枚の竹簡を差し出した。
「はっ。黒沙の残党を打ち破った後、軍を再編し、まっすぐにこの許都へ向かっている模様にございます。名目は、『帝への拝謁』と」
「拝謁、だと?」
曹操は、思わず声を上げて笑った。
「はっはっは! あの呂布が、戦ではなく、言葉で勝負を挑んでくるとはな! 面白い!」
彼の脳裏に、滎陽での、あの悪夢のような記憶が蘇る。人の理を超えた、赤い鬼神。
恐ろしいが、ただそれだけの猛獣。そう思っていた。
だが、最近聞こえてくる噂は、その認識を覆すものばかりだった。
袁紹の大軍を、寡兵で打ち破った。西涼の馬騰と、血の同盟を結んだ。そして、黒沙との戦では、謎の軍師を登用し、敵の策の裏をかいたという。
(あの陳宮が、そこまで呂布を変えたのか? それとも、あの男自身に、俺が見抜けなかった『器』があったというのか…?)
「面白い…実に、面白い」
曹操は、心からの愉悦を込めて呟いた。
「牙を隠し、君主の振りをしようというわけか、呂布奉先。ならば、こちらも最高の舞台で迎えてやらねば、礼を失するというもの」
彼は、立ち上がると、居並ぶ諸将に厳かに命じた。
「全軍に伝えよ! 并州の呂布将軍は、帝に忠誠を誓うため、はるばる北の地より参られる、漢の忠臣である! 城門を大きく開け放ち、全軍で、丁重にお迎えするのだ!」
その言葉に、夏侯惇が訝しげに眉をひそめる。だが、曹操は、その視線を制するように、続けた。
「だが、歓迎の宴の裏で、奴の息の根を止める準備も進めておけ。奴が、もし帝の前で牙を剥くようなことがあれば…その時は、この許都を、奴の墓場にしてやる」
彼の瞳には、旧敵との再会を喜ぶ、子供のような無邪気さと、天下を狙う怪物の、氷のように冷徹な光が、同時に宿っていた。
(飛将か、鬼神か…貴様の化けの皮、この俺が剥いでやるわ)
こうして、許都の城門は、呂布軍を歓迎するために、大きく開かれることとなった。
二人の英雄の、腹の探り合い。騙し合い。
火花散る戦場よりも、さらに危険で、濃密な戦いの幕が、今、上がろうとしていた。




