第三十五ノ二話:飛将の決断
第三十五ノ二話:飛将の決断
許都への道は、并州から南下してきた時とは、全く違う空気に満ちていた。
戦の緊張感はない。だが、その代わりに、目に見えぬ、さらに重く、複雑な何かが、呂布軍の将兵たちの肩にのしかかっていた。これから向かうのは、敵意を剥き出しにした戦場ではない。笑顔の裏に刃を隠した、魑魅魍魎が巣食う、政治の中心地なのだ。
軍の先頭を進む呂布の表情もまた、硬かった。
(…本当に、これで良かったのか…?)
軍議の場で、あれほど堂々と宣言したものの、彼の心の中では、今も葛藤が渦巻いていた。
赤兎を駆り、敵陣を蹂躙する方が、どれほど気が楽か。言葉と腹の探り合いだけで、あの曹操という怪物を出し抜くことなど、本当に自分にできるのだろうか。
彼の視線が、自らのすぐ後ろ、数歩離れて馬を進める一人の青年の姿を捉えた。
参謀、単福。
今回の、この「外交」という戦を選ばせた、全ての元凶。
(あの男…)
黒沙との戦いで、彼の知略が軍を救ったのは事実だ。あの神業のような策がなければ、今頃、俺たちはどうなっていたか分からない。その力は、認める。認めるが故に、どこか底が知れず、まだ完全に心を許しきれぬ自分もいた。その矛盾が、呂布の心を苛んでいた。
そんな主君の心中を見透かしたかのように、張遼が、そっと馬を寄せた。
「殿。お顔が晴れませぬな」
「…張遼か」
「殿の、お気持ちは分かります。あの曹操という男、一筋縄ではいきますまい。ですが」
張遼は、後方の単福を一瞥すると、どこか面白そうに続けた。
「我らには今、殿の武だけでなく、あの男の知恵もございます。心配は、ご無用かと」
「ふん。お前は、すっかりあの男を信用しているようだな」
呂布は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「いえ。某が信じているのは、あの参謀の知恵だけではありませぬ」
張遼は、きっぱりと言った。
「某が信じているのは、あの男の力を認め、自らの戦い方を変えるという、困難な決断を下された、我が主君・呂布奉先、あなた様ご自身にございます」
その、あまりにも真っ直ぐで、揺るぎない忠誠心に、呂布は一瞬、言葉を失った。
そうだ。俺は、独りではない。
張遼がいる。高順がいる。そして、遠い并州では、陳宮が、娘たちが、俺の帰りを待っている。
彼らの信頼を、裏切るわけにはいかない。
呂布の心の中の、最後の迷いが、ふっと消えた。
彼の顔から、葛藤の色が消え、代わりに、いつもの、不敵な笑みが浮かぶ。
「…違いない。少し、考えすぎていたようだ」
彼は、赤兎の腹を軽く蹴った。
「行くぞ、張遼! 曹操がどんな手を弄してこようと、この俺の『義』は、決して揺らがん! それを、見せつけてやるまでよ!」
その力強い声に、張遼もまた、晴れやかな笑みを浮かべて頷いた。
少し後ろで、そのやり取りを静かに聞いていた単福は、主君の吹っ切れた表情に、静かに安堵のため息をついた。
(殿は、乗り越えられたのだな。自らの過去の戦い方を…)
そして、同時に、その主君を支える張遼という将の、その器の大きさに、改めて深い敬意を抱いていた。
飛将の、困難な決断。それは、軍の心を再び一つにし、新たな戦場へと向かう、力強い推進力となった。
許都の城門は、もう、目と鼻の先であった。