第三十五話:怪物の先手
第三十五話:怪物の先手
黒沙との激戦から、一夜が明けた。
払暁の冷たい空気が、まだ戦の匂いが残る陣営を包んでいる。
呂布軍の軍議の幕舎には、夜明けと共に、主要な将たちが集められていた。その顔には、昨日の勝利の興奮と、同時に、新たな脅威への緊張感が入り混じっている。
昨日、黒沙の首級と共に届けられた、あまりにも絶妙な時期での凶報。
――兗州の曹操孟徳、帝を保護し、許の地へ遷す。
「何だと!? あの男、やはり動いたか!」
地図を睨みつけながら、張遼が忌々しげに吐き捨てた。
「我らが黒沙と死闘を繰り広げている間に、まんまと漁夫の利を得ようという魂胆か! 許せん!」
「今すぐ許へ兵を進め、帝を奪還すべきです!」
若い将校たちが、息巻く。その熱気は、武断派の筆頭である張遼にも伝播し、彼の目にも戦の炎が宿った。
だが、その熱狂を、冷徹な一言が切り裂いた。
「…なりませぬ」
声の主は、単福であった。昨日の戦勝により、もはや彼を「書生」と侮る者はいない。全ての将が、その言葉に静かに耳を傾けている。
単福は、主君から認められた気負いも見せず、ただ静かに、しかし揺るぎない声で続けた。
「兵は昨日の激戦で疲弊しております。このまま、万全の態勢で待ち構えているであろう曹操軍と事を構えるのは、あまりにも危険です。それに…」
彼の瞳が、怜悧な光を宿す。
「我らが力をもって帝を奪還しようとすれば、天下の目にはどう映るか。『帝を巡って争う、新たな賊軍』と見なされ、我らが掲げる『義』の旗は、その輝きを失いましょうぞ」
「では、どうしろというのだ! このまま、指をくわえて見ていろとでも言うのか!」
張遼が、もどかしげに反論する。
その二人のやり取りを、呂布は腕を組み、黙って聞いていた。
かつての自分ならば、間違いなく張遼の意見に乗り、即座に許へ馬を駆っていただろう。だが、今の彼は違う。
張譲の死は、彼に、激情に任せた判断が、取り返しのつかない悲劇を生むことを、骨の髄まで教え込んでいた。
彼は、静かに立ち上がると、地図の一点を、その武骨な指で示した。
「…単福の言う通りだ。今は、戦う時ではない」
その決断に、張遼をはじめとする将たちが、驚きに目を見開く。
呂布は、続けた。
「だが、引き下がるのでもない。俺は、許へ行く。ただし、戦のためではない」
彼の瞳に、深い思慮の色が浮かぶ。
「帝への拝謁を名目に、并州の主として、堂々と乗り込むのだ。そして、曹操と、直接言葉を交わす。あの男が、帝を擁して何を成そうとしているのか、この目で、見定めてやる」
それは、武力ではなく、外交という、彼がこれまで最も苦手としてきたはずの戦場で、勝負を決するという宣言であった。
単福は、主君の、そのあまりにも大きな成長に、息を呑んだ。
張遼もまた、主君の意図を悟り、自らの短慮を恥じるように、静かに頭を下げた。
「よし、決まりだ」
呂布は、全軍を見渡し、厳かに命じた。
「軍を再編し、許へ向かう。だが、これは戦ではない。心せよ。我らは、漢の忠臣として、帝に拝謁しに行くのだ。その威容を、中原の者どもに、見せつけてやれ」
その声には、もはや猛将の荒々しさはない。
敵の力を認め、自らの置かれた状況を冷静に判断し、そして、最も効果的な一手を打つ。
真の「君主」としての、威厳に満ちた響きがあった。
并州の軍勢は、次なる、より複雑で、より危険な戦場へと、その歩みを進め始めた。