表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
123/227

第三十五話:怪物の先手

第三十五話:怪物の先手

黒沙との激戦から、一夜が明けた。

払暁の冷たい空気が、まだ戦の匂いが残る陣営を包んでいる。

呂布軍の軍議の幕舎には、夜明けと共に、主要な将たちが集められていた。その顔には、昨日の勝利の興奮と、同時に、新たな脅威への緊張感が入り混じっている。


昨日、黒沙の首級と共に届けられた、あまりにも絶妙な時期での凶報。

――兗州の曹操孟徳、帝を保護し、きょの地へうつす。


「何だと!? あの男、やはり動いたか!」

地図を睨みつけながら、張遼が忌々しげに吐き捨てた。

「我らが黒沙と死闘を繰り広げている間に、まんまと漁夫の利を得ようという魂胆か! 許せん!」


「今すぐ許へ兵を進め、帝を奪還すべきです!」

若い将校たちが、息巻く。その熱気は、武断派の筆頭である張遼にも伝播し、彼の目にも戦の炎が宿った。


だが、その熱狂を、冷徹な一言が切り裂いた。

「…なりませぬ」

声の主は、単福であった。昨日の戦勝により、もはや彼を「書生」と侮る者はいない。全ての将が、その言葉に静かに耳を傾けている。


単福は、主君から認められた気負いも見せず、ただ静かに、しかし揺るぎない声で続けた。

「兵は昨日の激戦で疲弊しております。このまま、万全の態勢で待ち構えているであろう曹操軍と事を構えるのは、あまりにも危険です。それに…」

彼の瞳が、怜悧な光を宿す。

「我らが力をもって帝を奪還しようとすれば、天下の目にはどう映るか。『帝を巡って争う、新たな賊軍』と見なされ、我らが掲げる『義』の旗は、その輝きを失いましょうぞ」


「では、どうしろというのだ! このまま、指をくわえて見ていろとでも言うのか!」

張遼が、もどかしげに反論する。


その二人のやり取りを、呂布は腕を組み、黙って聞いていた。

かつての自分ならば、間違いなく張遼の意見に乗り、即座に許へ馬を駆っていただろう。だが、今の彼は違う。

張譲の死は、彼に、激情に任せた判断が、取り返しのつかない悲劇を生むことを、骨の髄まで教え込んでいた。


彼は、静かに立ち上がると、地図の一点を、その武骨な指で示した。

「…単福の言う通りだ。今は、戦う時ではない」

その決断に、張遼をはじめとする将たちが、驚きに目を見開く。

呂布は、続けた。

「だが、引き下がるのでもない。俺は、許へ行く。ただし、戦のためではない」

彼の瞳に、深い思慮の色が浮かぶ。

「帝への拝謁を名目に、并州の主として、堂々と乗り込むのだ。そして、曹操と、直接言葉を交わす。あの男が、帝を擁して何を成そうとしているのか、この目で、見定めてやる」


それは、武力ではなく、外交という、彼がこれまで最も苦手としてきたはずの戦場で、勝負を決するという宣言であった。

単福は、主君の、そのあまりにも大きな成長に、息を呑んだ。

張遼もまた、主君の意図を悟り、自らの短慮を恥じるように、静かに頭を下げた。


「よし、決まりだ」

呂布は、全軍を見渡し、厳かに命じた。

「軍を再編し、許へ向かう。だが、これは戦ではない。心せよ。我らは、漢の忠臣として、帝に拝謁しに行くのだ。その威容を、中原の者どもに、見せつけてやれ」


その声には、もはや猛将の荒々しさはない。

敵の力を認め、自らの置かれた状況を冷静に判断し、そして、最も効果的な一手を打つ。

真の「君主」としての、威厳に満ちた響きがあった。

并州の軍勢は、次なる、より複雑で、より危険な戦場へと、その歩みを進め始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ