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幕間ノ二:獣の見る夢

幕間ノ二:獣の見る夢

痛い。

脇腹が、焼けるように痛い。

虎牢関で、あの関羽という髭の男に斬られた古傷が、悲鳴を上げている。だが、それ以上に、心が、魂が、理解を超えた現象を前に、軋みを上げていた。


(なぜだ…?)


黒沙は、本陣の中央、馬上から、目の前の地獄絵図を、信じられない思いで見つめていた。

虎牢関で深手を負い、西涼の地で傷を癒していた俺の元に、長安の李傕・郭汜から使者が来た時、初めは鼻で笑ってやった。あの、董卓の威光にすがるしか能のない、器の小さい狼どもに、この俺が仕えるなど、冗談ではない。


だが、奴らは言ったのだ。『呂布が、并州から南下してくる気配がある』と。


その名を聞いた瞬間、俺の血は沸騰した。

呂布奉先。

あの男に受けた、生涯最大の屈辱。あの三人の英雄に囲まれ、初めて味わった「死」の恐怖。

金も、地位も、どうでもよかった。

ただ、もう一度、あの男と戦うためだけに。あの男の首を、この手でへし折る、ただその一点のためだけに、俺は李傕・郭汜の誘いに乗り、この長安に留まったのだ。


そして、練り上げた策は、完璧なはずだった。

谷での火計は失敗したが、この鉄床戦術は、完璧なはずだった。呂布をこの場に釘付けにし、その間に別働隊が奴らの背後を突く。単純だが、それ故に、絶対的な策のはずだった。


だというのに。

なぜ、我が軍最強の別働隊が、何の知らせもよこさぬまま、こうもたやすく壊滅させられている?

なぜ、俺は、高順とかいう男の、あの見え透いた猛攻に釣られて、本陣の予備兵力まで、前線に送り出してしまったのだ?

そして、何より。

なぜ、あの男は、待てたのだ?


黒沙の脳裏に、苛立ちを抑え、中央で静かに時を待っていた、あの赤い鬼神の姿が蘇る。

虎牢関で戦った時の、あの男は違った。

あれは、ただの猛獣だった。怒りに任せて牙を剥き、己の力を誇示することしか知らぬ、御しやすい獣。

だが、今のあの男は違う。

まるで、老獪な狩人のように、完璧な時機を待ち、そして、仲間が作った最高の舞台の上で、満を持してその牙を剥いた。


(…あの陳宮とかいう軍師か…!)

黒沙は、忌々しげに舌打ちした。

(あの男が、あの獣に『知恵』を与えたのか! 嵐に、道筋を与える風が加わったというのか! 馬鹿な! そんなことが、あってたまるか!)


そして今、その嵐が、自分だけを目指して、一直線に迫ってくる。

「うおおおおおおおおおおっ!」

呂布の咆哮が、戦場の全ての音を掻き消し、黒沙の鼓膜を震わせる。

速い。

虎牢関の時よりも、遥かに速い。そして、何よりも、その動きに一切の迷いがない。


(こいつ…俺の首だけを、狙っている…!)

左右の兵士たちが、まるで雑草のように薙ぎ払われていく。もはや、障害物ですらない。

黒沙の全身の毛が、逆立った。

虎牢関で、あの三人に囲まれた時以来の、あの感覚。再び、あの絶対的な「死」というものが、具体的な形を持って、自分に迫ってくるのを、肌で感じていた。


西域の砂漠で、父を殺し、兄を殺し、力だけを信じて生きてきた。

奪い、犯し、殺す。それが、この世の真理だと信じていた。

そう信じることでしか、生きられなかった。

だというのに、生涯をかけて築き上げたこの絶対的な「力」が、今、目の前の男が持つ、得体の知れない「強さ」の前に、いともたやすく無に帰そうとしている。

人生とは、かくも無常か。


だが、目の前の男は違う。

あの男の瞳に宿るのは、破壊の喜びではない。

何かを、守るため。

その、自分には到底理解できぬ「何か」のために、あの男は、神の如き力を振っている。


(あれは…あれこそが、真の強さだというのか…?)

(俺が、生涯かけても手に入れられぬものだというのか…?)

初めて、彼の心に、力への信仰以外の、別の感情が芽生えた。

それは、畏怖であり、そして、ほんのわずかな、憧れであったのかもしれない。


だが、思考する時間は、残されていなかった。

赤い残像が、眼前に迫る。

呂布の、氷のように冷徹な瞳が、自分を射抜いていた。


(…面白い)

黒沙は、絶望的な状況の中で、ふっと、乾いた笑みを浮かべた。

(…面白いじゃねえか、呂布奉先…)

己の全てを懸けた策が破られ、生涯を捧げた力が否定され、それでもなお、この胸は、この魂は、歓喜に打ち震えている!

この乱世に生まれ、数多の雑魚を屠り、そして最後に、貴様のような本物の『君主』と、こうして命のやり取りができる! 武人として、これ以上の喜びがあろうか!


(どうせ死ぬなら、貴様のような、本物の『君主』に喰われるのも、悪くはねえ…)


獣は、最後に、自らが狩られるべき相手の、その器の大きさを認め、そして、全ての力を右腕の鉄棍に込め、最後の咆哮と共に、迫り来る嵐へと、その身を躍らせた。

それは、敗者の悪あがきではない。

一人の武人が、自らの死に場所を見つけた、誇り高き、最後の牙であった。

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